ぐるぐるとの頭の中を回って煩わしいそれはの目を綱吉から避けさせる。彼が嫌いな訳ではなく彼に嫌われている訳でもないをそうさせる言葉はまた翻って脳内を闊歩する。命をかけてのリング争奪戦となります、そういったチェルベッロは きっと命という言葉を使ってもいいくらいには命の重さも、それが何であるかも判ってはいないに違いない。もう現実も彼の決心も後戻りなど許さない今になって正義感の強い綱吉に命を賭けろというのはずるいとは思った。そっと、部屋の中で翌日に迫った再度の争奪戦の準備をする綱吉を盗み見る。コントロールできない現実に寒気がする。この世は自分を悲しませることなどお構いなしに動いているのだということを、もしくはその可能性に満ちているのだということを、痛いほど実感した。泣いて済むことじゃない。これは、避けられない現実で、そうして乗り越えねばならない試練だ。

「ああー...イヤだな明日なんてもう来なくていいのに...」
「大丈夫よ、ツナ」
「......?」

ベッドの脇の床に座って、床を見つめたままそう呟いたに、綱吉は違和感を覚えて動きを止める。それは午後九時の、一瞬の静寂。は膝の上に組んだ両手に顔を半分ほど埋めて、それでも判るように目元を緩めて微笑んだ。

「ツナなら、できるわ」
「でも」
「...あたし、信じてるから」
「信じてるって、さっきから俺と目も合わせてくれないのに?」

その綱吉の声だけが異様に強く聞こえて、の心臓はどきりとする。
は無意識に奥歯を噛み締めた。どうしようもない現実に対しては泣いたって無駄だ。

「本当よ、」
「...」
「信じてるの」
「ダメだよ

その言葉は何の解決にもならない、と綱吉は苦笑しての前に座り込んだ。は、相変わらず闊歩する言葉が邪魔をして、綱吉の顔を見ることは出来ない。代わりに視線を投げた先には綱吉の着るTシャツがあって、そこには、get your idealと記されていた。究極の理想を掴めという割には、貧相なロゴだなと思う。何だか世界ぐるみで馬鹿げたショーでも展開しているような気になってきて、は小さく自嘲気味に笑った。

「命を賭けるってどういうことか、ツナ、あなた判ってるの?」
「......、それは、判ってるよ、覚悟もしてる」
「ザンザスは冷酷よ。そして強い。あなたのように甘く育ってきてはいないのよ」
、」
「...綱吉、あなたはまだ、」
「俺はまだ、逃げないよ」
「............」

何を言われても聞かされても、逃げない覚悟はある、そう言って、綱吉は頬を掻いた。自信なんかないくせに、はそんな綱吉に胸中でそう呟く。不安を自信で覆い隠せば誰にもばれないなんて、彼はまたそんなことばかり考えているに違いない。

「死んだらどうするの」
「...死なないよ、死にたくない」
「......そんな、保証なんて、どこにもない」

「うるさい」

ああ、だめだ。喉に声が張り付いて上手く音が出ない。頬と耳の奥が熱くなって目頭が緩んでは落ち着くために一度深呼吸をした。無音の部屋の中では、が息を止めさえすれば、そこに残るのは愛しすぎる綱吉の呼吸だけ。もしもいつかこの存在が誰かの手によって傷付けられて消滅してしまうなら、いま、彼が無防備に自分の前に存在しているこの瞬間に、ぐちゃぐちゃになるほど愛してしまいたい。そうしてついには電気に照らされた、綱吉のその顔を見つめた。綱吉が、伸ばしたその手での涙を拭ったので、もう諦めるしかないと思ったのだ。我慢なんてしなくてもいいのに。そう言った綱吉は穏やかに笑っている。何で笑えるの、と思うは、綱吉が言ったように我慢など出来ない。

「おねがいだから、わかってよ。わたしはあなたがすきなのよ、だから、どこにもいかないで、いまだけはここにいて、聞いてよ...、わたし、あなたの笑顔でどんな日だって乗り越えられたし、こんなに一生懸命になれたのも、自分から行動するのも、あなたがいなければ成り立たなかったわたしの日々があったから。指輪なんてどうだっていい、わたしは例え世界が犠牲になろうと、あなたを、」
「ストップ」
「っ.........」
「...ありがとう、」

片手での口元を軽く押さえた綱吉は、見れば先ほどとは打って変わって泣きそうだった。苛立ちや、悲しみや、焦燥や、苦しみ、孤独、恐怖、そういったものすべてが一気に押し寄せてきたら、一体どうやって対処すればいいかなんて、誰も教えてくれなかった。しかし、だからこそ、解決するかどうかなんて判りもしないのにそれを綱吉にぶつけてしまったことをは後悔した。

「...、それでも、現実はもう何も変わらない」
「.........」

大きな絶望とはこういうものだ、とは即座に理解する。判っていたけれど知りたくなかった、そんなものが否応無しに突きつけられる感覚。何をしても無駄だと思う時に生まれる、何かに対して、たぶん、人生においての最も充実した部分への喪失感。自分の無力さを知ったときの虚しさ。仕方がないんだ、で片付けられたら一番楽だろうにと思った

「俺は行かなくちゃ。逃げも隠れも、出来ないから」
「...そ、っか」
「......でも、死なない。確かに保証はないけど、それでも、一生懸命頑張るよ」

綱吉の声は、歌のようだとは思う。無ければ生きていくのはとても辛くて難しい。

「だから、これが終わったら、また、が言うみたいに二人で色んな人に幸せを振りまこう、」

泣きじゃくったまま、何度も頷くに貰い泣きしそうになって、綱吉は苦笑する。きっとは知らないだろう。疲れてくたくたになって帰ってきて、何もしたくないと思ったときに励ましてくれていたのはの言葉だということ。そうして今も、本当は怖くて怖くてどこかへ失踪してしまいたいとか泡になって消えられたらなあとか思っていた自分を本当に決心させたのはの、痛いくらい素直な感情だということ。自分のことを大切にしてくれる存在がいるから、死ぬわけにはいかないし、逃げるわけにもいかない。守りたいものがたくさんあるこの世界を、失うわけにはいかないのだ。

「約束、して」
「...うん、約束する」
「信じてるわ」
「うん」

綱吉はそっとの左の頬を右の手の甲で撫でて、そうして手を伸ばしてを抱きしめる。一生懸命生きているのは、今この瞬間に自分に与えられたすべてのものを愛しいと思うからこそだ。不意にがキスを求めて綱吉を呼ぶ。空に浮かぶ月が少しだけ西に傾いて、向かいの家のドアが開いて誰かがただいまといった。それは午後九時の、一瞬の静寂のこと。



聞いて、取り返しのつかなくなる前に


021607
atoli