朝、目を覚ましたらそこに当たり前にいるはずの存在はなく、寝惚けていた事も忘れて は暖かい部屋の中で心臓が冷えるのを確かに感じた。いない、その事実が示す現実が「ただ留守にしているだけ」なのか、それとも「そうではない」のかはわからない。薄い寝巻き用の着物が寝ていた間にはだけたのさえ直しもせずに、立ち上がって洗面台に向かう。心臓はまるで収縮したように高鳴りはしない。しかし間違いなく寝起きとは思えない拍数を刻んでいて、体の末端にはもはや温度すら感じなかった。それでも、は普段と変わらずに顔を洗って歯を磨く。隠された動揺、怯えを除きいつもと違うことといえば、着物がだらしなくはだけていることだけであった。口の中を水でゆすいで、動揺と共に吐き出す。顔を上げて目の前にある鏡を覗けば、そこにはいつもと何ら変わらない様子の自分がいる。こんな世界に足を踏み込んでおきながら いざとなると不安で何も手に付かなくなるなんて そんな失態だけはせめて上辺だけでも絶対に避けたい。化粧水と乳液をつけながら、はちらりと見えた鎖骨の下、左胸の上に視線を投げて驚いて、そうしてようやく体内に残った怯えを取り出した。窓を隔てて庭先からなだらかにさえずる鳥の声がする。絶対音感を持つと、聞こえる音すべてが音階に当てはまって聞こえるらしいが ただ、一度だけ歌うように小さくその鳴き真似をするだけで 絶対音感を持たないにはその音階までは分からない。ピアスのしまってあるケースを開けて物色していると、先ほどの鳥の声に返ってくる音がする。銀色のものを一組無造作に摘み上げて鏡の前に向かう途中で、ふと思った。ひとつひとつの音に、意味はあるんだろうか。

「そんな格好で、なにしてるの」
「恭 弥... いたの?」
「...いるよ、それより そのだらしのない格好、何とかしてくれない」

スーツを着ているところを見れば、どこかへ出ていて今戻ってきたのだということはすぐに分かる。突然にいなくなることなんていつものことのように見えるが、しかし思い出してみれば実はそんなに多くない。そう考えれば、朝の酷い動揺にも納得がいく。は再びその視線を恭弥へと向けた。黒く染めた絹糸のような、細く柔らかい髪。切れ長の 優秀そうな黒い双眸とそれに見合う秀麗な眉。いつもはどこか不敵な様子の彼の薄い唇は今は不機嫌そうに歪められている。はそれを見ておきながら、しかし慣れた様子で軽く無視した。しつこく言ってくる事はあっても、決して彼はそれを力ずくで強制させようとはしない。ただし、言うことを聞かない場合はそれなりの覚悟をしておかないとすぐに彼がその視線や態度で与えてくるプレッシャーに負けてしまうけれど。新調の黒いスーツを驚くほど綺麗に着こなした彼は部屋に置かれた椅子に足を組んで座って不機嫌そうに目を細める。はそれを横目で見ながら、小さく笑んだ。誰もがそうであるように、もこの雲雀恭弥という男がとても恐ろしかったというのに、今は余程のことが無い限りは怯えたりはしない。昔はじっとこちらを見られるだけで狙われた小動物のような気分を味わっていたのに。彼が歩み寄ったのか、わたしが慣れてしまったのか。はピアスを付け終えてチェックをしながら少し考える。きっと、どちらもだ。

、早くその格好」
「恭弥」
「なに」
「...すきよ」

少しシリアスな雰囲気を出そうとしたは笑うつもりなどなかったのに、そう言って恭弥を見たとたんに無意識に顔が綻んだ。すき。この気持ちは不思議だ。人が人を好きになることも、60億とか何十億とかよく分からないけれどそれくらいの半端ない数の中のたった二人が計算するのも嫌になるくらいの確率で両思いになることも、なんだかとんでもなくすごい事だ。恋をすることも愛することも誰でもいいわけじゃない。偶然か必然か、それは分からないけれど いつも選ばれたたった一人が目の前にいる。選んだ相手が恭弥で良かった。

「きみはどうしてそんな遠くから物を言うわけ?」
「え」
「まさか まだ僕が怖いなんて言わないだろ」
「...言わないわ」

椅子から立ち上がっての方へと向かってくる恭弥を、は妙に幸せな気持ちで見つめていた。なんと単純な心だろうと思う。もう完全に彼の手中だ。突然姿が見えなくなれば恐ろしくて仕方が無くなるし、こうして傍にいれば自分は世界で一番しあわせなんじゃないかとバカみたいに思ったりする。あなたになら殺されてもいいとかいう映画とか小説とか音楽とかでよく見かけるような、そんな台詞、気が狂ってるとしか思えなかったけれども、今ならもしかしたらその気持ちが分かるかもしれない。ついにわたしの気も狂ったのかしら。はそんなことを考えて立ち止まった恭弥をじっと見つめる。動くたびに首筋に浮かぶ筋肉の筋が とても美しいと思った。

「怯えないね」
「...朝は さすがにひやりとしたけど」
「寝てるきみが悪い」
「...ほんと、食物連鎖の三角形の頂点からの物言い...っ」
「....でも ここに、ほら」

残しただろう。の薄い着物の間に冷たい手を当てて、その白い肌を陽に晒しながら面白そうに恭弥は笑う。彼の指先にあるのが、今朝起きたら左胸に付いていた赤い痕だと、実際に見なくともには理解できた。恭弥の手が軽くその痕を撫でると、途端にぴくりとのからだが揺れる。控えめな低い笑い声がして、は居心地が悪くなってぐいと恭弥の手を退かした。そうして再びその手が触れないように、そのまま掴んでおく。少し骨張った、男の手。とくんとくんと穏やかに刻まれる脈拍に、あたたかな体温。女の子にも負けないほど顔つきが綺麗なのは今も昔も大して変わらないけれども、こうしてみるとやはりいつもいつの間にかどこかで大きく変化は起きていた。高い背、低い声、肉付きの薄い細い腰に逞しい背中。絶対に口に出してはいえないけれど、それらすべてが今はわたしのものだ。本当に、絶対に、口に出してはいえないけれども。ふと、恭弥が動く気配がして、はまた身を強張らせる。空いた手で恭弥に顎を掴まれると、ぐいと上に持ち上げられた。

「いやらしい、からだ」
「べつに いやらしくなんか」
「...そう?」
「...好きな人に触られたら 反応して当然でしょ?」

そうだ。好きな異性と目が合っただけでも緊張したりそれだけで一日中幸せだったりするのに、触られたりしたら誰だって死ぬほどどきどきする。意識もするしやらしい気持ちになったりもする。もはや半分開き直って恭弥を見つめ返してやると、笑っていたはずの彼の表情はまたしてもできれば拝みたくない不機嫌なものになっていた。庭先に置かれた鹿威しがかこん、と立てる音が微かに聞こえる。地下基地だというのに庭まで作ってしまうのだから、執着心があまりなさそうに見える彼も実はとんだ凝り性らしかった。怒っているのかと思って なによ、とが不審げに問うと、恭弥は目を細めての顎を掴んだ手に少し力を入れる。それでも、あまり痛くないのは彼なりの最大の配慮なのだろう。

、きみは他の人間の前でもそんな風なのかい?」
「...うん、そう、だけど」
「僕になら どんなに言ってもいいけれど」
「...なによ」
「あまり 他の人間に好きだ好きだと言わないことだね」

恭弥がそう言い終えるが早いか否か、に掴まれていた手をいとも容易くほどいて、彼は三たび、早く着替えるようにに告げての部屋を後にした。捲くし立てるかのような急な展開にしばらく呆然としたあと、観念しては箪笥を開ける。こちらも新調されたばかりの黒い細身のスーツを引っ張り出して、はだけたままだった着物を脱ぎ捨てて着替える。掴まれていた顎には、まだ恭弥の熱が残っている上に、掴んでいた両手にはまだ彼の穏やかに刻まれる脈の感覚が消えずにいる。どくんどくんと終始治まらない心臓のある辺りを無造作に掴んで、は小さく眉間にしわを寄せた。ひどい。言うだけ言って自分は満足して出て行った。いつもはそんなこと気にしないくせに、と吐き出すように呟いて、思い出すのは珍しく感情を露わにした恭弥の素っ気無く冷たい表情。なんだろう。なんだか苦しい。病気ではない。なんだろう。理由もなく涙が滲んだ気がしたけれども、スーツの袖で無かった事にして部屋を出る。履いたヒールの音が軽やかに鳴っているが、それでもの心は少しも軽くならない。さほど離れていない恭弥の部屋に、声をかけてから入る。金、深紅、鮮やかな青に緑に紫に黄色。いろんな色の施された襖を閉めて振り返ると、着流しに着替え直した彼が手の甲にヒバードを乗せて 縁側と部屋を区切る障子に背中を預けてこちらを見ていた。彼がただ黙って見つめてくることには慣れたはずだ。殺意も、敵意も、まるでない、ただの意識。それなのに刺すように痛いのは、先ほどの会話が気になって気まずく思う気持ちがこちら側にあるからかもしれない。かこん、と鹿威しが鳴る。恭弥が呼吸をする。が立ち止まって恭弥を見つめた。

「着替えたね」
「恭弥」
「なに」
「あなたまさかあたしが、他人にも簡単に好きだと言うと 思っているわけじゃ」
「...簡単かそうじゃないかなんて どうでもいいよ」
「...どういう」
「僕以外にその言葉 言う気があるの?」

いやにはっきりと聞こえた声に、は思わず下げていた視線を上げる。恭弥は少し顔を傾けて静かにを見下ろしていた。ゆっくりと瞬きをする度に微かに揺れる、長い睫毛に縁取られた、見慣れた強い双眸が何だか見慣れないもののような気がしては驚く。最近は輪をかけて忙しそうにしていたから、きっと疲れているんだろう。なんだか疲れてぐずる子供のような恭弥がおかしくて少し微笑う。そうしてもう一度鹿威しが鳴ったあとに、は躊躇いもなく呟いた。それは迷うことすら難しいほど絶対的な唯一の答え。

「ない」

どくんどくんと落ち着かない心拍数も気持ちもまるで治まることを知らず、おまけに胸が苦しくて切なくてつらい。しかしそれでもはしあわせだと思った。計算するのも嫌になるくらいの確率でわたしが出会ったのは目の前に居る男たった一人だ。目が合うだけで緊張させたり一日中幸せにしたり、触るだけで死ぬほどどきどきさせたり意識させたり時々やらしい気持ちにさせたりする、そんな人間なんて他に誰が居るだろう。そっと手を伸ばして恭弥の着流しに触れる。彼は仕方なさそうに手の甲に乗せていたヒバードを庭先の方へと飛ばしてやった。少し背伸びをするに合わせて頭を下げることも腰を屈めることもしなかったが、恭弥の片手はしっかりとの腰に添えられて彼女を支えている。静かに唇を重ねて ゆっくりと伝わる愛しい熱にやんわりとが着流しを掴むと、恭弥はその手を一度だけ撫でて唇を離した。あたたかい。障子から離れていつもの座布団の上、机の前に移動する恭弥を視線で追う。疲れているくせにいつものように平然としている目の前の男も、同じような気持ちを感じてくれていればいいなとは思った。

「ねえ」
「...なに、」
「すきよ」
「......僕は僕を好きじゃないきみはきらい」







How are you sweets



032508
(でもきみが僕を好いているなら)