指先が足先が頬が睫毛が、つめたい。ぼんやりと真っ白いテーブルの上に顎を乗せて、ついでに溜息も一つ乗せる。外は春うららという日本語がそのまま正体を現したかのような天気だ。わたしはそれなのにどうしてわたしの指先や足先や頬や睫毛は冷たいのかと不思議に思った。木々はピンク色だ。地面は萌黄色でところどころに蒲公英の黄色が見え隠れしている。わたしの心は青色だ。でも心が何処にあるのかは知らぬ。季節に合わせた柔らかなベージュ色のカーテンがゆらゆら揺れて、風が窓枠を越えて部屋を覗きにやってくる。外で鶯が鳴いて、今は平安時代なんだろうかと思った。思ったが、しかしわたしは平安時代というものも知らぬ。仕舞いにはなぜそう思ったかも分からぬ。わたしのこの思考は一体全体どこからやってくるのだろう。ふと風に吹かれて、はもう何度目かの、この全てを投げ出したくなるような恐ろしく腑抜けた感覚に嫌気が差した。何に対してもやる気が無い。きっと自分は駄目な人間で行く末以外に思いやられる対象を持たない人間なんだ。誰がそうと決め付けたわけでもないというのに、私の中には何ともいえぬそんな確信が渦巻いていた。もう自信なんて無いのだ。空っぽなのだ。そうしてテーブルの上でこちらを見つめてくる、薄い茶の液体をその中へと湛えたコップは何も言わない。ただ只管に跳んでくる光をまたどこかへ跳ね返してそうしてその度に汗をかいていた。しかしついに物言わぬコップの代わりに物言う生き物が現れる。その茶色の柔らかそうな髪は重力とは逆さに立てられて、その茶色の睫毛は瞬きの度振動する。よく見知った人間の顔だ。彼は言う。もう夕方だと。

「...だから何だというのよ?」


その彼の声は穏やかな春の気候にも負けず緩やかで、わたしはいっそのこと、わたしという存在が融けてそうして彼の生み出す音の海で泳げたらと思った。わたしの心は青色だ。でも彼に対する気持ちはいつでも赤い。しかしやはりなぜかは知らぬ。彼は修行を終えてきたのかその体に多くの傷を作っていたが、笑ってもいた。そうしてわたしが泳ぎたいと呟くと、じゃあ海に泳ぎに行こうかという。春だけれどもまだ寒いことくらい赤ん坊でも分かるというのに、この男はばかだと思った。わたしがその中で泳ぎたいと思う彼の音は瞬きと同時にまた生まれてわたしの隅々にまで浸透する。

「がんばろうよ」
「...綱吉はさ、なんで、そんなにしてリボーンについていくの?」
「オレ?」
「うん」

必要以上に口を開けば禄でもないことばかりが飛び出しそうなのでわたしは必要以上に口を開かないように努力する。ふとした瞬間に自信を失くして絶望して失望してしまうのは何も初めてのことではない。とうの昔にこれはもう性格だと割り切った。それ以外に手軽な対処法などないように思えたからだ。綱吉は空いていた白い椅子に、律儀に背筋を伸ばして座った。その体は繰り返される過酷な修行で確かに目に見えて変化している。しかしそれは修行をしていると知っているからで、さらにはそれが過酷なものだと知っているからそう錯覚するだけかもしれぬ。どちらにしろそこにが求める情報や答えは一切なく、追求する意味を持たない謎はそのままの瞬きに押しつぶされて消えた。

「確かに最初は...まあ今も、嫌々リボーンに引っ張られてボンゴレ関係の事件に巻き込まれては、いるんだけど、」

わたしが無言で相槌を打つと、外で桜も真似をして相槌を打つ。その拍子に枝にしがみ付ききれなかった花弁がぱらぱらと落ちた。前に庭で満開に咲いていた桜の花弁を地面に落として掻き集めて遊んでいたら、上から毛虫が降ってきた事があった。苦い顔でそれを思い出しながら、わたしは目の前の男に何を言わせたいのだろうと考える。勇気付けられたいのかもしれないと考えて否定して、代わりに慰められたいのかもしれないと思ったが、それも違うと否定する。ならば何だと三度考え直せば、きっとわたしは同情されてわたし自身を正当化させたいのだろうという答えに辿りつく。今度はなるほどそうかもしれぬと思った。


「そもそも、死ぬ気弾っていうのは...本人にその気がなければ復活出来ないもの、だろ」
「...どういうこと?」
「例えば誰かがオレに人助けをして欲しくてオレに死ぬ気弾を撃っても、人助けをする気がなければ、オレはそのまま死んでしまうんだ」
「そうね」
「でも、オレはまだこうして生きてる、それはつまり、オレには人並みに正義感も責任感もあって、」

でもただ、逃げることに慣れてしまったから自分に何かを護れると思えなくなってしまったのだ。そう言って目の前の男が苦く笑う。情けなさそうに笑う情けない男はしかし随分と逞しく見えた。彼はわたしと同じように物言わぬコップを眺めて呟く。希望することも夢もあるけど自信がない。それはには馴染み深い感覚すぎて、むしろ本当に綱吉がそう感じているのか不審に思った。カチカチと時間を刻む時計の針の音がする。この世の中から時計というものを全て消し去ったら、この、何かに追われ続ける生活に終止符は打たれるだろうか。朝は7時に起きなければ学校には間に合わないとかその学校は8時30分からだとか昼食の時間は30分間だとか夕飯の頂ける時間だとか門限だとか、そういう、わたしにプレッシャーと規律と倦怠感を押し付けてくるものに。それは誰もがきっと一度は望むことだろうがしかし、一体どこの誰がこの終止符を打ちたがるというのか。打てば私たちに残されるのは困惑と怠惰と混沌だ。誰もが一同に何をしていいのか分からないまま目標を失い、規律を失くせば自然と基本も無くなって誰もがわたしのような行く末しか他人に思いやられない人間になり、そうして好き勝手に生活を始める人々のその生活は一寸も余すことなく破綻する。そんな世界で一体誰が幸せになれるもしくはそう思うだろうか。何かに追われ続けるこの眩暈のしそうな生活には終止符は打たれない。終止符を打った酷い世界を軽く見越した賢人たちが新たな時計を普及してしまうに決まっている。わたしがそんな無意味なことを考えている間に、綱吉は綱吉で何かを考えていたようで、彼は慎重に言葉を選びながらまた小さい子が楽譜をなぞる様に話し出した。

「自信が無いから、やり遂げられる確信が無いから、何をするのも怖くて嫌なんだ」
「......それはただの臆病だわ」

誰だって未来に確信なんて無い。怖いときは誰だって怖い。それを理由にするのは些かずるいと思った。しかしそう思っていた自分が居るのも確かで、はそれを否定するために目の前の男を否定した。外が紫色に染まり始めて、紫に喰われかけた鮮やかな橙色が心細そうに地平線に這いつくばる。空には微かに数億光年前の明かりが灯り始めた。

「ねえ、......自分に自信が無いからって、何にも出来ないわけじゃないよ」

オレを見てよ、そう言ってまた笑う傷だらけの男は心底面白そうに少しばかりその両腕を広げる。二人の間を通り過ぎる生ぬるい風が一瞬だけ桜の匂いを運んできて、わたしは思わず視線を外へと向けた。夕闇が辺りを包んでだいぶ視界がきかなくなってきていたが、それでもまだ桜は美しかった。煌々と小さいながらに星が瞬いて、きれいだなあと呟いたらそうだねと向かいに座る男は相槌を返してくる。わたしは小さい頃から星を見るのが好きな性分だったので、じっと眺めて夢中になっていると綱吉はやんわりと目元を緩めて黙ってわたしを眺めていた。そうしてわたしがあの星はどこにあるんだろうと言えば窓からそれを覗き込んで分からないという。じゃあ宇宙はどれくらい広いんだろうかと言えばそれも分からないという。半ば呆れて今度は、宇宙の果ては何処だろうねと呟いたら、綱吉はそれはが決めることだとはっきり言った。わたしはそう、と頷きかけて耳を疑う。幼稚園の先生も小学校の先生も、誰一人そんなに下手に自らの無知を誤魔化したりはしなかった。その他の今まで出会ってきた教師という職業の人たちからも、どの教科書からも、ただの一度だって宇宙の果ては自分で決めろなんてそんなぶっ飛んだことを教わったことなどない。しかし今までどの質問にも分からないと答えていた男が何故突然はっきりと答えを示したのか気になってどうしてと訊くと、彼はわたしを見つめて口を開いた。

「だって、誰も知らないよね、答えなんて」
「そりゃ、今はまだ誰も知らないけど」
「ね。答えなんてないけど、欲しいなら自分で自分に答えを出してあげたらいいんじゃないかな」
「そうかな」
「オレはそう思うけど...」

問い詰めると思わず自信がなさそうになる綱吉が言った事は、言われてみれば納得がいく。そうして、この世界にはまだ誰も見たことのない未知の世界がたくさんあることにわたしはわくわくした。探検に行けたらどれほど良いことか。それは少々恐ろしいことのように思えるけれども、踏み出した後にやってくる感動と歓喜と驚きを思えばそんな恐怖など何でもない。わたしは空を見上げた。どれかの光を辿っていったら、そこにはまだ恐竜がいたりするだろうか。空を飛ぶペンギンとか、水の中で咲く花とか、発光する綺麗な宝石だとか、空に浮かぶ島だとか、そういったものがこの宇宙の中の、どれかの星の、何処かに、あるとすれば、それほど面白いことはない。今更になってこの世界のとんでもない可能性に気が付いたなんて、ばかなのはわたしも同じだったようだ。

「なんでも有り得ると、思う?」
「うん、思うよ...この世界の全てのことは誰にもわからないんだし、それに」

続けかけて、目の前の男は一度、本当に優しく微笑んだ。知らないかもしれないが、人が本当に優しく笑うときの表情は筋肉がどう動いてどう形を変えるかとかそんな堅苦しいもので生まれてくるのではない。現に綱吉の笑みは満面ではないけれども、それでもじんわりと彼が本当に笑いたくて笑っていることが伝わってくる。そうしてその笑みは伝染してわたしにもうつるのだ。ふいに森の影から顔を出した満月が、桜と白いテーブルとその上にあるコップ、そうして挙句の果てにはわたしたちの睫毛の先までを照らし出す。わたしは綱吉の言い掛けた言葉の先が気になってついに、それでと尋ねた。空の上で、月明かりは星の光を消すことなく漂っている。星と月は随分仲が良いのだと思った。

「誰もこの世の全てを知らないなら、この世界の一部であるオレたちの事だって、きっと誰にも分かりはしないよ」

この世界の多くの未知の部分にも、その世界の一部であるわたしたちにある未知の部分にも、誰も予測はつけられない。世界は今あるすべてのものをまとめたからこその世界であるべきだし、それで初めてわたしたちが生きる意味も生まれてくる、と綱吉はいう。ひとりひとりが世界の一部で、だから世界というのはわたしたち一人一人だ。そうしてだからこそこんなにも大事なのだ。小難しい話だとわたしが口を尖らせると、綱吉はいつもはばかだと言ってひやかすくせにと、困ったように、しかしどこか嬉しそうにも笑った。

「こんなオレたちにだってとんでもない可能性がないとは誰も言い切れないなんて、少しわくわくするだろ」

そうねとわたしは頷いて、何だかすこし晴れ晴れとした。これが世間で言う誇らしい、という気分なのかもしれない。わたしは口元だけでにやにやと笑って、そうしていつの間にわたしの指先や足先や頬や睫毛は熱を持ったのかと不思議に思った。見ればもう外は完全に闇色だ。微かな色の判別しか出来ず、真昼に見たピンク色も萌黄色も蒲公英の黄色もいなくなっていた。まあ朝になれば世界は元通りの世界に戻ろう。そういえばあんなに青かったというのにわたしの心もいつの間にか青色ではなくなっている。少し驚いてそれからわたしは何故だか綱吉に視線を向けた。途端に目が合う。なに、と尋ねられて名前を呼ばれる。そうしてわたしは気が付いた。わたしの心はすぐに青や黒や灰色やその他様々な色に変化する。でも彼に対する気持ちはいつでも赤いままなのだ。





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041207
(だいじょうぶ、出来ないことは考えもしないはずだから)