リムセアン・ペウレアン



何だか酷く気持ちの悪い夢を見た。何を見たかは頓と覚えていない。ただ何とも言い様のない不快感だけが体中をねっとりと覆いつくしていて、ベッドから起き上がることすら嫌になるほどその感覚は重かった。それでもわたしは起き上がる。顔を洗ってご飯を食べる。着替えて歯を磨く。申し訳程度に化粧をして家を出る。午前7時45分。しかし通学路を歩きながらも未だに今朝の夢がぐるりぐるりと循環していた。やっぱり学校、このままサボってしまおうかな。

「よ!」
「ひっ」
「アレ、驚かしちまったか?」

振り返ると、悪い悪い、と謝りながら初夏の太陽にさえ負けず燦々とした笑顔を湛える男が見えた。山本だ。楽天家で義理と人情と懐が深くて実家は寿司屋。よく笑う、わたしのたいせつなひと。

「おはよう、」
「おはよ、武。今日は一人なの」
「ん?ああ、もだろ?一緒に行こうぜ」
「あたしは...」

わたしは「サボろうかな」と言いかけてしかしその言葉を呑んだ。武はにこにこと飽きもせずに笑っている。何だかその様子が妙に優しくて泣きそうになったので、そうなる前に何でもないと言っておく。通勤で駅へ向かうスーツ姿の人や並盛中の生徒や散歩中の飼い主と犬とかが風に流されるように通り過ぎて行った。天気がいい日に気分が沈むのは良くない。擦れ違う人皆が幸せそうに見えて悲しくなる。

「どっか具合でもわりーのか?」
「ううん」
「じゃ、親と喧嘩でもしたのか?」
「ううん」
「...欲しい雑誌が買えなかったとか?」

わたしはまたううん、と首を横に振った。山本武は楽天家で義理と人情と懐が深くて実家は寿司屋でよく笑うわたしのすてきな恋人だが天然ボケだ。それも他の追随を許さないほどの。わたしはもちろん、世界最年長の人だって武ほどの天然は今までに見たことがないに違いない。いくら感情豊かなわたしだって、きっとたかだか雑誌一冊でここまで具合を悪くしたりはしない。わたしはまた意味もなくううん、と言った。いよいよ武の笑顔は疑惑に乗っ取られる。ふたりの脇を時々車が通り過ぎていく。傍を通り過ぎる人はだんだんと居なくなる。そうしてわたしはふと人恋しくなった。武。

「でも具合悪そうだぞ、...大丈夫か?」
「武、あたしのこと好き?」
「ん?ああ、...すきだ」

一度言葉を区切って堂々と、武はわたしに温かい言葉を突きつける。それは時々痛くて体のどこかにある見えない傷口に沁みたりする。また他の時分はわたしの中の女としての本能を揺さぶって欲情させたり、一生とか絶対とか大仰過ぎて嘘くさい言葉を添えて好きだと思わせたりする。きっと人生を千回与えられてもわたしが好きになるのは武一人だけだとすら思ってしまうのだからまったくこの場合は敵わない。武は「でも、何だよいきなり」と言って少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「...さみしい」
「さみしい?」
「でも何でだか分からないの」

そもそも夢なんていう不確かで仮想的なものにここまで影響されてしまうなんてこと自体が可笑しい。夢はたかだか睡眠時に起こり得る一種の体感現象にしかすぎない。わたしが夢の内容を覚えていたならばもしかしたら、こんなに不快になることはなかったかもしれないが。こればかりはどうしようもない、直接干渉することが出来ないのが夢だ。因ってわたしが今現在確かに分かることといえば、不快で悲しくて寂しいことだけだった。どうしても想像しかねる、という御仁は、真冬の暗い山小屋でひとり毛布一枚でうずくまっている時を想像すればよかろう。そうすれば僅差はあるものの、わたしの症状との大した相違は生まれないはずである。白い軽トラックが風を引き連れてすり抜けた。スカートがぱたぱたと揺れる。遠くで登校時間の終わりを告げる朝一番の予鈴が鳴った。

「...ほら、走ればまだ間に合うわ、早く行かないと遅刻するわよ」
「しょーがねーな...」
「ちょっと」
「すきだって、言ったじゃねーか」

頬をゆるゆると風が滑っていく。武と彼に連れられたわたしは少し先にある小道に滑り込んだ。八朔か伊予柑か文旦か、とにかく何処かの敷地に植えられた柑橘系の樹木が、小狭いながらにもよく日の差し込む舗装されていない土の道に覆いかぶさっている。その風体は確かに少しばかり貧弱だが、それでもこれくらいの小道には丁度いい気がした。その木に止まる雀が鳴く。脇に置かれた如雨露の中の水がきら、と光る。武はとうとうわたしをその腕の中へ引き寄せた。

を放っていくほど、薄情でも半端な気持ちでもねえんだ」

武がどのようにして野球に熱を注いでいるかを知って貰えれば、彼の熱心さと一途さは理解してもらえるだろう。そうして武は義理と人情と懐が深い。決して自惚れているわけではないが事実として、こんな状態のわたしをそんな彼が見放す訳がないのだ。さわ、と貧弱な柑橘の木が風に揺れるたび、乾いた土の上に広がる影もゆらめいた。その優雅な動きも、武の腕の中もこの陽射しも暖かい。

「さみしいなら俺が傍にいてやるよ」
「たけ」
「だから誰も助けてくれないなんて顔すんな」

驚いて顔を上げたわたしの額にちゅっと音を立ててキスをして、武は困ったように「俺はおまえの男なんだぜ」と笑った。今度こそ優しさと嬉しさとで泣きそうになったので、そうなる寸前でわたしも何とか笑う。涙目のせいで差し込む太陽の光がよけいに眩しかった。腕の下から武の背中に手を回して胸元に顔を埋める。やっぱり少し涙が出た。武がそれを察してからかうので、「中学生の恋愛にしては出来すぎていて怖い」と切り返してやる。彼は一瞬面食らった顔をして、そうして燦々と笑った。

「まあ、年寄りになる頃には慣れるんじゃねーの?」
「そういう問題じゃ」
「さーてどうする、学校行く?それとも」

先ほどよりもほんの少しだけ近くで朝一番の本鈴が鳴る。いつもと違う場所で聞くチャイムはいつもとは違うように聞こえていた。不思議な開放感だ。丁度学校へ行くか行かないかを談義しようとした武は本鈴の後、私の顔を覗き込んで、「サボり決定だな」と面白そうに笑った。小道を出ると道を歩く人もほとんど居なくなって辺りは閑散としている。静かな道に笑い声を零しながら、きっと人生を千回与えられてもわたしが好きになるのは武一人だけなんだろうと思った。




050807
(出来すぎて怖いけれども、あなたが一生懸命なことは知ってる)