夕闇が迫っていた。世界はまるで赤ワインを入れたグラスを通して見えているようだし、私たちの顔は愛しく撫で上げられたトマトのよう。少しだけ、ではなく、全開に開けられた窓からは眩しすぎる光を乗せて風がやってくる。グラウンドではまだ、太陽を追いかけて頭を動かしながら生きる向日葵の様に清々しい、球児たちの声がしていた。しかしここは無音だ。なんて静けさ。この世界に、ここまで静かな場所は宇宙まで行かないと、きっと無い。ソファに座って、頬杖をついて、わたしはちいさく溜息を漏らす。なぜだろう。これはまるで、生まれるまでに感じた暖かさに似ている。

「...恭弥」
「......暇かい?」
「.........」

読んでいた本から顔を上げて、机を挟んだ先にいる恭弥は笑いもせずに訊いてくる。緩い風にも、細い彼の髪は揺れて、そのまま砂のようにすべて流されて消えてしまうのではないかと、こわかった。


「あ...、や、ごめん...つい...」
「ふーん?」

恭弥はわたしが思わず掴んだ手を眺めながら、その猫のような、というよりはティラノサウルスのような両目を細める。くい、とわたしの手を掴んで引くと、彼は机の上でわたしと唇を重ねた。そうして、唇を離して目が合うと、彼は笑うのだ、すべてを見透かすように。ああ、やめてほしい、と思う。わたしをからかう彼は、その目がどれだけ危険な代物か判っていない。いいや、むしろ、判っているから、か。

「...いい顔、するじゃん」
「...............どうもありがと」
「そそるね」
「まったく...」

恭弥は軽々と、私たちを区切っていた机という境目を踏み越えてわたしの上に影を作る。赤いワインの色をした、影は、暖かい羊水の温度。細く綺麗な恭弥の指先が踊るように頬に滑って首を撫でた。初めて、ライオンに狩られるシマウマの気持ちがわかった気がした。これは、心地良い緊張と、孤独からの解放だ。満たすために生き、満たされるために死ぬモノが得られる、究極の快感だ。

「...ここじゃあ何だし、僕の家へ来るかい?歓迎するよ」
「............恭弥、下心が見え見えよ」
「付いて来るのか、来ないのか、僕が聞いているのはそれだけだよ」
「...行くわ、」

一時も目を離さない。恭弥の双眸がすべてを捉えて動かしている。ああ途方も無いくらい、その目が、わたしを女にするのだ







生き残ったティラノサウルス
(そうね、あなたになら、このすべてを、ささげるわ、そのかわり、いつでも、いちばんうえでいないと、いやよ)




082706