泣いて喚いた頃の、あの無邪気な頃が懐かしい。夢の中の暗い海に身を浮かべながら、ランボは思った。一秒を過ごす事は一瞬で、それ故に恐ろしい。大事も小事も、全ては一瞬にして起こるもの。得るも一瞬、失くすも一瞬。

「ランボ」

どこかで聞こえるその声を、彼は酷く複雑な気持ちで聞いた。欲しいものはたくさんあったはずの幼き頃には全くなかった新たなる「脅威」が、彼の息を詰まらせる。それはまるで空が落ちてくるような、星が全てなくなるような、そんな圧迫感と共に彼に迫り来る。心穏やかに生きたいと願う個人にとって、失いたくないものを得る、というのは果たして、幸せなことなのか?判らない。それでも、日々を不安定に生きるより、普遍の日々を生きるほうがきっとずっと楽だろうに、とは思う。ランボ、と再び穏やかにその名前を呼ばれて、その男はむくりと埋めていた顔を上げた。真っ黒な髪は緩くはねて、彼の本来の気質をそのまま表しているよう。寝起きだからか、生まれつきか、彼のその目は面倒くさそうに世界を見据えていた。夢の余韻で頭が上手く働かない。

「...眠い」
「はいはい、判ったけど、もう11時よ、起きて。」
「起きてほしい?」

男特有の逞しい体をベッドの上に投げ出したまま視線だけをこちらに向けるランボは、大きく取られた窓から注ぎ込む陽の下で、酷く艶やかに笑う。泣き虫で、馬鹿で、間抜けだった彼はいったい何処へ行ったのだろう、とか、一体いつから、こんなにも余裕のある笑みを浮かべられるようになったのだろう、とか考えれば考えるほど疑問は増えて、数秒後、はもはや考えることを放棄した。常に入り浸っているランボの所為で、の部屋なのか彼の部屋なのか一見判らない部屋の真ん中に置かれた天蓋付きのベッドが軋む。はランボの上に馬乗りになった。もちろん彼の手は動いて、の柔らかな背後に宛がわれる。しかし起きたばかりで寝ぼけているのか、ランボの表情は本当に曖昧だ。ランボの顔をした偽者と、思えなくもない。そんなことなど露ほども知らず、小さく溜息を吐いたの唇を、新緑の双眸が愉しそうに追いかける

「Ciao,gattina」
「...Ciao, svitato.」

片手での頬を撫でるランボが言ったのはイタリア語で、だからもそれで返した。弾まない声とは対照的に、少しばかりのその頬は赤い。一方で、対するランボは少し不満げだった。

「...変人呼ばわりとは、酷いね」
「あたしは子猫ちゃんなんて呼ばれて寒気がするわ」
「仕方ないさ、本当のことだ」

相変わらずランボの上に乗ったままで、は眩暈を覚えた。この男、幼少の頃が馬鹿なら今は阿呆だ。それも筋金入りの。そう思う彼女が再び大仰に溜息を吐くと、ふと柔らかな風が部屋を横切った。は目を細める。窓を開けていたせいで入り込んでくる風は、イタリアの匂い。イタリアの匂いがどんなものかを口で表す方法は判らないけれど、それでも、緑の匂いや部屋に飾られた薔薇の匂い、そうして街の喧騒が混ざり合って流れてくる、そんなものが、イタリアの匂い。少なくともはそう思っている。

「.........美人になったね、
「何よいきなり」
「...ああ、いや、別に...ただそう思っただけだ」
「......」
「...そんな顔を、しないでくれ」

いつもとは違うランボに違和感を覚えて少し体を強張らせると共に表情もそうなったのか、の反応に苦笑して、ランボは薄っすらと寂しそうな顔で微笑んだ。柔らかくも悲しみに満ちた、それは、何かを悔いているような、或いは、戻れない過去を恋しがっているような、繊細な筋肉の動きで作られる表情。

「...過去に、戻りたいの?」
「...いいや。何故?」
「じゃ、何か後悔でも?」
「......いいや。」

----まだ幼い頃、自分には欲しいものがたくさんあった。それでも、失くしたくない、と思うものはなかったのだ。その我侭さが懐かしい。しかし今は、世の中の大半の人間がそうするように、欲に任せて失いたくないものを、手に入れた。形あるものはいつか、壊れて消えるもの。手に入れたものは、いつか、失くしてしまうもの。

「...失う、ということは恐ろしいと、思わないか」
「ええ、そうね」

ベッドの上に身を埋めて尋ねてくるランボが何を言いたいのか、にはそれが判った。だから同意して、堂々と否定する。

「でもそうでもないわ」

そりゃ、わたしだって、あなたを失えば悲しいけれど、と口を噤んで目の前の愛しい存在を見つめれば、泣きそうなほどに痛い気持ちでも笑えてしまうのも現実。

「だって例えあたしがあなたを失っても、あたしはランボを死ぬまで覚えているし、愛された時間はどうやっても消えない"事実"なのよ」
「......それでも、俺は悲しいけどね」

は苦笑する。こうして気弱になった時の彼の妙なしつこさはきっと一生変わらずその性格の一部となるのだろう。めそめそと泣かないだけ、大人になったというところか。まあ25歳にもなって泣かれたらもう放っておく他処置法は見つからないけれども。

「...ランボ。失って得るものもある。例えそれが辛いものでも、いずれはあなたの大事な一部となるわ」
「.........判ってるさ」

これではまるで彼の母親のようだ、と思ってしまう25歳のは、それが嫌で、腰を屈めるとそのままランボにキスをした。もちろん、母親が子にするようなキスではなく、もっと深くて甘美なものを。そうして当たり前のようにそれに応じてくるランボの黒髪を撫でた。が両腕をついた下にある彼の体は規則正しく彼の時間を刻んでいる。自ら死に近い世界に足を踏み入れておきながら、愛するものと一緒に長生きしたいと思うのは矛盾しているだろう。それでも、きっと愛しいものの傍では誰もがそう願わずにはいられない。私たちは愚かだ。

「、ねぇ、...いつか失う物事を恐れて、今得られる幸せを失っては、駄目よ」
「......そうか、ああ、そうだ」

形あるものはいつか、壊れて消えるもの。手に入れたものは、いつか、失くしてしまうもの。いつだって相場はそうと決まっているのなら、それまで大事にするしか、自分らに出来ることはないのだ。

、耳を貸して」

心穏やかに生きたいと願う個人にとって、失いたくないものを得る、というのが果たして幸せなことなのかどうかは判らない。その上、確かに日々を不安定に生きるより、普遍の日々を生きるほうがきっとずっと楽だろう。それでも、生きている日々が普遍なら、そこに生物が生きるための根本的な意味はなくなるのだ。

「ti amo, gattina」


愛してる、と、言ったランボの手が、泣きそうなの頭を引き寄せる。窓を開けていたせいで入り込んでくる風は、イタリアの匂い。







リセットするなんて都合の良い事は所詮不可能な愚か者の日々
092406