「骸さん、骸さん...骸」

目を覚ました誰もいない部屋で、うわ言のように何度か名前を呼んだ。骸、骸、骸。やっぱり私の唇には、皮肉にも今もその名前が一番馴染む。視界に入った窓の外では、雲が私を嘲笑うかのように、止まらない時を具現化した流れで窓から窓へと、そうして遥か遠い海を越えて国から国へと渡る旅を続けていた。その背後を彩る空はもう傾く陽に合わせて色付き始めて、それはどこか、初々しく頬を染める少女を連想させる。胸が切ない。彼は一体何処にいるんだろうか。日本で起きた光景を、その後の抜け殻のような日々を、無かったことにしたくて、イタリアにまで戻ってきたのに、彼はここ、イタリアにもいなかった。どうして。そう考えてすぐに、私の手が近くにあった物を掴んで投げた。苛立ちに唆されて勝手に動いた片腕の筋肉によって、悲しくもこの世界の残骸のごく一部と化したそれは、よくみればわたしが彼とお揃いにしたがって買ったコップ。

「馬鹿みたいね、」

ほんとう、わたしはばかだ、この世界で、いちばん。そうして同時に世界一の愚か者であり、臆病者でもある。暗くは無い、むしろ真っ白で明るいほどの室内でひとり、わたしはぼんやりと床に寝転んだ。その際に夢うつつに突然に頬を伝った液体が何かなど、判らないしどうでもいいし気付きたくない。彼はどこか?わたしはもう一度自分に尋ねる。居場所くらい知っている。彼は復讐者の、牢獄の中だ。

「骸」

ねえ、どこにいるの。

「むく、ろ」

鼻の奥がつんとして、一度は収まりかけた感情が再び部屋を覆う。風が起こればこの厄介な感情を含む全てのものは動くのに、この部屋には、もはやわたし以外動くものなどありはしない。懐かしい昔のように、愛おしい彼がこの部屋の扉を開けて入ってきて、わたしに笑いかけることも無い。失くすまで、人がその本当の価値を知ることは無いとはよく言ったものだ。あの頃のわたしも、わたしの世界を動かす風が彼であったなんて、微塵も想像しなかった。でも、今ならわかる。

「ねえ、骸」
「なんです?」

突然寝転んだわたしの頭上付近から聞こえた声に、わたしは目を瞠る。そうしてすぐに、泣きそうな双眸を庇うように笑った。このひとはいつも突然に現れるから困る。

「わたし、判ったの。何度憎いと思っても、何度絶望を味わってもやっぱりあたしにはあなたが必要だし、あなたを愛していることには変わりが無かったって」
「クフフフ、これはまた可愛らしい事を言ってくれますね。あなたの事だから僕はてっきり、会って一番に僕を張り倒すのかと」
「それももちろん考えたけど、幻覚までは、張り倒せないのよ、あたし」

そうだ、彼は幻覚。記録された映像のように、あの頃のままでわたしの視界に居る彼に話しかけることは出来ても、触れることは許されない。なんて無慈悲な世界。そうしてそれ以上に、なんて無知なわたし。泣くだけでは何一つ物事を解決できないことすら、知ったふりをしていただけで本当は知らなかった。

「...骸、ねえ、会いたいよ、どこに...どこにいるの?」
「...さあ、それは、判りません。あそこは僕の見知らぬ土地ですから」

返ってきた答えはきっと真実とは違う。彼の生んだ最初の沈黙で、わたしはそう思った。そもそも、窓辺に立って美しく暮れゆく外を眺めている骸の姿でさえ幻なのだ、もはやこの世界に、まだ真実というものが存在するかどうかすら怪しい。そう思いながら、両目から溢れる感情を隠すように、わたしは両手で顔を覆った。それでも、もしもこの世界に一つの真実も存在しなくなったとしても、きっとわたしは馬鹿みたいに望み続ける。彼を見れば、胸が高鳴って切なくなって、そうして優しく満たされるわたしのこの体のように彼の体も、きっとどこかで、彼の幻覚を通して満たされていることを。

「...、君にはこれからしばらくの間、とても辛い思いを、させてしまうと思います」

いくら嗚咽を殺しても、この、空気の動きすらない部屋では、息の乱れは簡単に彼に伝わってしまう。それを悔しく感じながら、わたしはそっと、熱を持った両耳で彼が紡ぐ旋律を聴いた。気をつけて聴けば、骸の声は、今もあの頃と同じように、空気を揺らして、音を紡いでいる。

「でも、...どうか忘れないでください、僕にも、そうしてにも、帰る場所が必要だということを。」
「なに、それ...、あたしに、生きて待ってろって事?」
「ええ、そうです。」
「...言われなくたって、死んだりなんかしないわよ...」
「おや、そうでしたか?これはとんだ失礼を、セニョリーナ。...それじゃあ時間も心配事も無いようなので僕はそろそろ戻りますが...折角ですからその前にひとつ、良い事を教えましょうか」

突然に瞼の上からでも判るほど強いオレンジ色の陽が射してきて、わたしは思わず目を開ける。骸の影で遮られていた分の陽がわたしの上に落ちていることに気が付いて焦って視線を窓辺へと向けると、その姿が夕陽に溶けるようにして消える直前、一瞬だけ見えた骸の顔はどこか満足そうだった。

「夕焼けが美しいと、翌日は晴れるんだそうですよ」

だから、たまには安心して笑って下さいね。

「僕が、いつでもあなたを守りますから」




鮮やかにひとり


101406
(いつも泣いていること、まさかこの僕が知らないとでも思ってたんですか?)