そうして午後八時に愛が言う





とまらない、彼の人生に、はすこし、恐れを抱いた。それに気が付いてしまえば、底なしに膨張する暗闇。毎晩毎晩傷だらけで帰ってくる小さな体はそれでも、どんなに辛くても、笑顔を忘れた事は無いのに、いつか帰ってくる場所を、忘れてしまいそうでは酷く、恐れを抱いた。

「ツナ、」

階段の、残りの数段を残したあたりで、は帰ってきた綱吉に声をかける。彼はさして驚いた風も見せずに、穏やかに、しかし疲れたようにに答えた。

「ただいま、もうご飯食べた?」
「ううん、ツナを待ってた」
「ええ!うそ、ごめん、俺なんて待ってなくていいのに」

そういいながら、少し照れくさそうに綱吉は笑う。暖房で暖められた空気が廊下を流れて、綱吉の冷たい指先を温めて、そうしての喉を少し乾かした。綱吉の指先や鼻先は赤く、頬や手には無数の傷が窺える。ばかじゃないの。の喉はそう言葉を紡いだが、しかし乾いていて音は出ない。つらい。はどうなるか予測すら出来ない彼の人生、に関わる自分の人生を嘆いた。ボンゴレの何代目とか、ファミリーとか、そういう面倒なことはすべてなくなってしまえばいいのだ。そうしてわたしのなかから、彼の記憶さえ消えてしまえばいい

「じゃ、あ、...一緒にご飯、食べる?」
「...うん」
「...うん。」

満足そうに小さく頷いて返事を返した綱吉のあとに続いてはキッチンに入る。暖かい匂いがした。暖かな、ホームの匂い。沢田家は暖かい。何だか不思議だなとは思った。この暖かさのように、何だって包み込むのは沢田家が最も得意とすることでもあったから。入れ違いで出て行ったママが、ご飯あっためておいたからねと笑った。

「はあーーー、もう、疲れたよ」
「ははは、それ、毎日言ってる」
「そりゃ、毎日しんどいもん...あー、もう、明日のこと考えると、憂鬱すぎる」
「はは」

?」

しまった、とは思った。しかし同時に、占めた、とも思った。なぜなら、の様子がおかしい、と思われることは失敗であり、しかし同時に、成功でもあるからだ。きっと突き詰められると迷惑をかける、と怯えていたはしかし綱吉にどうにかしてそんな彼女自身に気付いて欲しいと思っていたし、気遣って欲しいと思っていたし、愛して欲しい、と思った。そんなふうに極端な感情を同時に持ち合わせてしまう、は生きるのにきっと多くの面倒を越えなければいけない。

「どう、したの?」
「なんで、そこまで、するの?」
「え?」
「ボンゴレだって、ファミリーだって、直接あなたには関係なんてなかった」

それが嘘だ、と、は理解している。彼がこの世に生れ落ちたその瞬間から、少なからず彼の人生にはボンゴレが関わることになっていたことなど、彼の父親の職業を考えれば一目瞭然だった。しかしそれでも、彼には拒否権だって、あったはずだ。あったはず、ではなく、今もきっとそれは存在している。しかし彼はそれを、いつまでたっても選ばない。彼が選ぶのはいつだって、その時の衝動で掴み取ったような未来だけ。そうして後悔をするのではなくてそれを全て肯定するのだ、すべて。まるでそれが運命であるかのように。

「どうして、ツナ」
「...わからないよ」
「......綱吉...」
「俺はいまでも、マフィアなんて真っ平だって思ってるし、怖いし、痛い思いをするのも嫌だよ」
「じゃ」
「でも」

ご飯を食べる箸を持ったまま、綱吉は顔を上げる。まっすぐ、にだけ向けられたその表情は、何かを覚悟して耐える顔ではなくて、は、ああ、動かせない、と本能で悟った。彼の人生は彼のものであり、それは誰の手にも、懐かないのだ。そうしてまるで豹のようなそれは何をするでもなくいつだってじっとその持ち主の選択を傍観して過ごす。

「でも、目の前で仲間が苦しんでたら、やっぱり、耐えられないだろ?」

何かをしなくちゃと思うし、何かをするには、力が必要だって、わかったから。

「だから、だと、思う...」
「......そっか」
、待って」

そうして口を噤もうとしたを、綱吉は遮る。もう話すことなどないと思い込んでいたはそれに酷く驚いて、同時に酷く恐怖を抱いた。ファミリーもボンゴレもなくなってしまえばいいと、思っていた、は、罪悪感から上手く逃れられないまま、綱吉の言葉を聞く事になる。そうしてついに、が堪えていた涙を流すことを、綱吉は許してしまったのだ。

の、考えてたこと、まだ聞いてない」
「...は......?」
「こんなこと聞くなんて、何か考えてたんだろ?...言ってもらえないか、な、良かったら」

ばかだ、ばかだ、ばか。自分が恥ずかしい。彼があの沢田家の人間で、さらに何に対してもバカみたいに優しいことを、知っていたはずなのに、思い出すことすらしなかった。どこまでも未熟で、大人になれない自分がもどかしい。助けられることに申し訳なさを感じるのは、申し訳ないことなのだろうか。いいやきっとそれよりも失礼なことなのだろう。

「怖いよ...綱、吉......わ、わたし...あんたが、いつか、帰る場所を忘れて、頑張りすぎるんじゃないかって、怖い」

帰る場所があれば、人は自然と帰ってくる。疲れたらそこを思い出せば、心に支えが生まれる。しかしもしもその場所をなくしてしまえば、戻れない焦燥感と不安に耐えることは並みのことではない。家ではない、どこか、心の拠り所が帰る場所だ、と、はそう思う。だからこそ、失くして欲しくないのだ。すべてを一気にやり遂げなくとも、ひとつひとつ確実にやればいい。必要以上に急ぐ必要などどこにもない。

「......」
「...、...う、」
「...ごめん、そりゃ怖くもなるよ、ね...俺、毎日こんな傷ばっか作って帰ってくるし...」
「...謝って、欲しいわけじゃ、」
「うん、わかってる」

が涙で滲んだ視界の中の綱吉を見ると、彼は待ち構えていたようにその視線を捉えて微笑んだ。いつの間にか彼が持っていた箸はテーブルの上に置かれている。には綱吉のことはよく分からないのに、一方で彼にはのことは全て理解されているようで、の感情は煽られた。止まらない涙の裏で、は綱吉に感謝する。悔しいとか、悲しいとか、不甲斐ないとか、そういうことを忘れてしまうほど、幸せだ。

「わかってるよ、だから...いつも心配してくれて、ありがとう、って言おうと思ってた」
「......ツナぁ」
「え、ちょ、でもそんな泣かないで、あの、俺」

どうしたらいいか、分かんない、そう言って慌て始めた目の前の男に、は泣きながらも心から笑って、そうしてその両手で涙を拭った。不思議にすっきりとした気持ちで、少し冷めてしまったご飯を口に運ぶ。冷めてしまってもやはりママが作るご飯は暖かい味がして、こんなふうに、誰もが知らずに誰かの帰る場所を作っているのだと、は誰かの愛の大きさと、それから自分の小ささを思い知る。

「ツナ、今更だけど、あいしてるよ」
「ぶっ...ちょ、ちょっとー!?なに言っちゃってんの!」
「や、あんたが忘れないように、言い聞かせてやろうと思って。」
「ばかそんな恥ずかしいことしなくても忘れないよ!」
「え」
「あ」

いい事聞いた、と至極嬉しそうに微笑むと、少し恥ずかしそうに話題を変えて箸を進める綱吉の二人の食卓は、午後八時の沢田家のキッチンで続けられる。たまに弾けるの笑い声に、綱吉は密かに疲れを忘れつつあった。明日のことも苦にならない、そう思う。そうして綱吉とが夕食を食べ終わるころ、外で小さく焼き芋屋の車が通る音がして、誰もが予想したとおり廊下からランボの大きな声が響いた。





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(あなたの帰る場所は、あなたが望むそのときにあなたを待ってる)