たん、たん、たん、とツナのママが階段を上がる音で目を覚ました。午前七時だった。気だるい体を無理に起こして顔を洗い、制服へと着替えを済ませて台所へ向かう。朝食のあの独特のやさしい匂いが鼻先を掠めて消えた。好きな匂いなのに、慣れてしまうとわからなくなるのは悲しい。もう下へと戻ってきていたママと、リボーン、イーピン、ビアンキに挨拶をして席に着く。居ないランボはきっとまだ布団の中で眠っている。子供というのは何て羨ましい生き物なのだ、とは思った。ママがコーヒーを淹れてくれる。

「...眠いよー...」
「ごめんなさいね、ちゃん。ツナの補習のお手伝いなんて」
「あ、気にしないで、制服着るのも楽しいしね」
「制服着るのが楽しいの?」
「ん?うん」
は本当は中学生じゃないからな」

そうなのだ。リボーンの言うとおりは中学生ではないのだけれど、ボンゴレ十代目候補に選ばれた沢田綱吉がどう成長するのか気になるどこぞのファミリーのボスの言い付けでここでこうしてツナを見守りながら楽しく愉快に生活している。正直、ツナが少し羨ましい。毎日何かが起きるツナのような人生なんてそうない。朝食の目玉焼きを摘まむと、階段を下りる音と共にツナが顔を出した。

「おはよう、ツナ」
「おはよ。...あれ、
「んー」
「なんか今日、早くない?」
「そう?」

そっか、と納得して再びおはようと言うツナに笑い返す。ボンゴレ十代目は可愛いらしい、と報告したら奴はどういう顔をするだろう。食卓の上を転がる様々な会話に耳を傾けながら、はそう思った。朝食を終え、支度を済ませて玄関を開ける。梅雨が明けた後の日差しは豪快に笑いながら世界を照らしていた。例のように獄寺が玄関前で待っており、例のように登校中に山本に出会う。毎日同じの繰り返しに見えて、しかしやはり何かは違うのだ。はツナの言うとおり普段より早く目が覚めたし、その原因もまた、毎日同じように起きる物事ではない。

「よォ、ツナ」

後ろから聞こえた声に、この声は、とツナが振り返る。一々振り返る必要もないは振り返りもせずに立ち止まる。涼しいはずの風は、その匂いを運んでの体温を少しだけ上げたようだった。

「ディーノさん!」
「元気にしてるか?」
「はい」
「そっか、そりゃ良かった」

訳の判らない事を聞いてくるディーノは本当に彼本人なのだろうか。少しだけ振り返ってしまっていたはそれでもディーノの顔をまだ一度も見ていない。彼は彼で、困ったようにを見ていた。見かねたロマーリオが口を出す。

「そんなんじゃ尻に敷かれちまうぜ、ボス」
「う...」
「何だ?なんか用事があってきたんじゃないのか?」

真夏の空の下に立ち竦んでいるのはとても辛い。野球少年の山本ならば話は別だろうが、と上手く核心を突いてディーノに訊いてくれた彼を見た。

「ん?、どうした?」
「え、ううん、何でもない。...本当、頼りないボスだなァと思ってさ」

可笑しそうに笑うは同時に少し嬉しそうだ。ぽん、と持っていた鞄を大量にいるディーノの部下の一人に渡す。の声はコンクリートの地面と青い空に挟まれた。

「それで、今日は?」
「いや、それがなァ...」
「なによ」
「.........ちょっと何してるかなって思ってさ」

少しはにかんで笑うディーノに一瞬目を瞠ったは、先ほどの笑みを完全に消した表情でディーノを見眇めた。冗談も休み休み言えよ、と溜息を吐きながら、振り返ってツナ、獄寺、山本の三人を視界に入れる。は申し訳なさそうに笑った。

「ツナたちは先に行ってて、後で行くわ」
「あ、うん」
「お前らも先帰ってていいぞ」
「はいはい、言われなくても邪魔者は帰るぜ、また明日な、ボス」

ディーノはそうからかってホテルへと帰っていく部下たちを、は後でね、といって先を急ぐ三人を見送って一呼吸する。一気に沈黙がその場を包んで、先ほどまでは聞こえなかった鳥の声まで耳に流れ込んできた。ディーノの鮮やかな髪が太陽を吸い込んだように煌いて風に揺れる。そういえば、さっきは顔を見に来たといっていたが、きっとこの男は他の用事があって来たに違いない。どんなに陽気で抜けていて無茶苦茶でも、さすがにキャバッローネファミリーを預かっている彼はそうそう軽薄な行動には出ないし、何より、彼自身よりも住民やファミリーを優先する、それがディーノという男だ。

「それで?」
「...なあ、
「うん?」
「......俺んとこに、来ないか」
「......は?あたしならもうボンゴレからキャバッローネになってるじゃないの」

九代目に可愛がって貰ったからって、我侭言ってボンゴレから引っこ抜いたくせに、とが言うと、ディーノは面食らった顔をした後大きく笑った。この男は瞳の色も髪の色も、その笑い顔さえ太陽のようだ。何者にも囚われずに、ただ人生を謳歌して生きる。羨ましいような、何だか恐ろしいようなその生き方はきっとそれでも、誰の目にも眩しく見えるだろう。

「ははは、そうだな、じゃあ今度はお前を引っこ抜いた男の」

妻なんてどうだ、と目の前で言うディーノは真剣だ。は、優しく細められる双眸に、ちいさく柔らかな溜息を漏らした。

「.........そのために来たのね」
「まぁな」

溜息を吐きながら苦笑するディーノが、なぜわざわざ日本に来てまでにプロポーズしなければいけないのか、そんなことは判らない。だってどうでもいいのだそんなことは。大事な事はそれではなくいかに彼が、もしくは自分が、お互いを愛しているかという事。

「悪いけど、お断りよ」
「な...」

がけらりと笑う。一気に沈黙がその場を包んで、先ほどまでは聞こえなかった心臓の声まで耳に流れ込んできた。でもそれは実は嬉しさに高鳴ったせいだ。それを知っていて、しかしは知らんふりをした。

「あたし、街中でいきなりプロポーズされて頷くほど軽い女じゃないの」

一つ頬にキスを落とし、場所は選んでねと言って去ったを見送って、ディーノは小さく吹き出した。跳ね馬にはちょうどいいなと呟いた声が零れ落ちたその場所で、ふたたびディーノは恋をする。




スローダンス
081206