はその瞬間、生れて拾何年で一番の動揺を感じていた。じりじりと草木を焦がすような容赦のない陽射しを大きな屋根の下で容赦なく無視してソファに座りながら携帯を持っていた、の手が僅かに震える。それだけではない。コップを持とうとしたもう片方の手も、同じように震えている。しかしそんなことにはお構いなしで、の視線はずっと画面に釘付けのままだ。意識と言えば、居間に面した廊下からの夏希の呼びかけにも、彼女曰く5回目で応じたらしいほどに、画面の向こうへとすっ飛んでいた。それは、じわじわと全力で鳴く蝉の声すら全く聞こえていなかった3分間のことであった。

「な、な、な、なつき」
「なに?ていうか、、何見てるの?」
「え...何って...、ら...」
「ら?」
「ラブレター........」





一万字のラブレター





は未だに半信半疑のまま、驚きの声をあげて駆け寄ってきた夏希に携帯を手渡す。きらりきらり、真夏の光にのアバターが開くメールを映した携帯の画面が反射した。するりと夏希の手に渡ったそれの画面には確かに、OZ経由で届けられた一通のメールが映っている。長いメールだった。いや、長いラブレターだったというべきかもしれない。夏希はうーんと眉間を指先で押さえながらそう思った。

「これ........どうするの?
「うん」
「え、うん、って....」

答えになってないじゃない、と夏希が視線を上げると、は今にもどこからかチーンと鐘の音が鳴りそうな様子でソファの背もたれに倒れ込んでいる。不意に、からん、と軽やかな音がして、が先程掴もうとしていたコップの中の、氷が溶けた。なんだ。一体何が私の身に起きているんだ。はむしゃくしゃして思わず大声を出した。そうしてすぐに夏希に止められる。彼女は万理子おばさんに怒られちゃうよと必死に宥めていたけれども、そんなことはこの家に出入りするようになって長いにも重々承知の事であった。分かってる。大声を出したら万理子おばさんに怒られることも、夏希がメールの最後に記してあった「待ち合わせ場所」に行くのか、行かないのかという答えを催促していることも、行ったら佳主馬に怒られることも、行かなかったら自分の良心が酷く痛むということも。

「どうしよう」
「うーん、佳主馬くんに相談.....」
「どーせただのイタズラだよ行くだけ無駄」
「えっ?」
「って言われる、間違いなく」
「に、似てるね」
「そりゃね」

何が「そりゃね」なのか、何故がちょっと自慢気なのか、夏希にはどちらも頓と分からなかったけれども、それでも、少なくとも佳主馬が最適な相談相手ではないことだけはわかったし、それが今知るべき最も重要にして唯一の項目であったことも確かであったので、特に詮索はしないことにした。

「じゃあ、行ってみなよ!ね、そうしよう?なんならわたしも一緒に行ってあげる!」
「夏希あたし.....」
「うん?」
「.....ううん、なんでもない、じゃあ、今日の夜の待ち合わせ前にまた話そ!」

それは何だかとても悲痛な音をしていて、夏希は思わずはっとを見る。やれ告白だやれ呼び出しだとうっかり親友の一大事に気持ちが浮ついてしまっていたけれども、果たしてこうけしかけることがにとって良いことであったのか。夏希は自信がない。しかし向かいに座るは嬉しそうな笑顔でもあったので、その不安は今夜再びと話す時まで隠しておこうと夏希は思った。んー、と伸びをして、が立ち上がる。釣られて夏希も立ち上がったけれど、どうやらはトイレに行くようで、二人はそのまま、居間を出た廊下で左右に別れた。ぎしと、古い木造建築特有の優しい音がする。裸足で歩く廊下は、遮りきれない外からの陽射しをたっぷりと浴びてじんわりどころか少しばかり熱かった。ふと、トイレに行く途中では立ち止まる。見える納屋はいつも通り、相変わらずの薄暗闇だ。そしてそこに微かに反射するパソコンの光も、いつも通り。ふと、は手の中に握ったままだった携帯を見つめた。もとから、トイレに行く、なんてものは口実だ。

「佳主馬」
「.....なに」

キーボードを打つ手を止めて、佳主馬は小さく納屋の入り口を振り返る。一瞬、緩やかに揺れる黒髪の合間に、機械的な光にきらきらと反射する綺麗な瞳が覗いた。しかし次の瞬間には、もう佳主馬の細い背中しか視界には映らない。

「なに、してんの?」
「なにって、OMCだよ。いつも通り。それより、そっちこそどうしたの?」
「どうって」
「何かあったの、って聞いてる」

なんで、とは問おうとしたけれども、それを予期していたのか、佳主馬は振り返りもせずにそのまま「そういう質問してくる時は何かあった時だから」と付け足した。そうして、すごいねと言おうとしたに、「言っておくけど、これは別にすごくもなんともない」という。それは確かに、いつも通りの反応で、いつも通りの佳主馬で、いつも通りのであった。しかし、どうしてだか、は非常に切なくなる。今すぐ年甲斐もなく泣き出すか、自分の年齢を顧みず佳主馬に抱きつくかしないと、息が詰まって死ぬと思った。

「佳主馬」
「なに」
「あたしって幾つだっけ」
「はあ?」

余りに頓狂な問いだったせいか、ついに佳主馬は完全にその視線を未だ納屋の入り口にいて入ろうとしないへと向ける。そうして、はっと息を呑んだ。廊下に反射して差し込む、夏のきらきらしたひかりが、ぽろぽろと零れ落ちるの涙を宝石みたいに輝かせている。佳主馬は一瞬、一体何が起きているのかと思った。目の前にいるは確かに泣いているのに、あまりに驚きすぎてその事実を掴むのに5秒もかかる。

、と、とりあえず、入りなよ...」
「佳主馬」
「うん、なに」
「あたしのこと、好き?」
「......えっ?」

薄暗い納屋の中でも、やっぱりの涙はパソコンの画面のひかりに反射してきらきらと光った。何故が泣いているのか、佳主馬には全く見当もつかない。しかし、薄暗闇で覆われた納屋の中では、が握りしめていた携帯の画面はそれなりに目立った。納屋に入るなり座り込んだにそっと向き合って、佳主馬は大粒の涙をこぼすをじっと見つめる。携帯の事は気になったけれども、それでも、投げかけられた質問に答えることが優先だと佳主馬は思った。

「好きじゃなきゃ、こんなに一緒にいない」

はっきりと、たった3秒程度の言葉だけが、微かなパソコンの起動音に混じって納屋に響く。は申し訳なさそうに、そうだねと相槌を打とうとしたけれども、しかし、それは佳主馬の再びの声に遮られて音にはならなかった。僕はまだ中学生だけど、と未だ声変りのない声音が静かな調子で続ける。

「本当に好きじゃなきゃ、大好きなばあちゃんの前で」
「あ」
「この人以外は一生好きにならない自信があるだなんてセリフ、出てこない」

水に打たれたように顔を上げたの視線を逃さずに捉える佳主馬は、まさしくキング・カズマそのものであった。或いは、紛れもなく、陣内の家系に求められる立派な男であった。少しの間、佳主馬と静かに視線を交わしたのち、今度こそは大きく深呼吸をして、そうだねと笑う。なんで、あんなにも不安で切なくて苦しかったのか、は数分前の自分が信じられない。しかし、その感覚は夢でも、幻でも、錯覚でもなかった。確かに息が詰まりそうなほどの不安が、の中ではついさっきまで渦巻いていたのだ。だが、ただ、目の前にいる、自分よりも年下の少年が、それを驚くほど綺麗に消し去ってしまったから、まるで嘘のような感覚を覚えてしまったというだけの話だ。

「佳主馬、...ありがとう」
「...いいよ、別に」
「.....ねえ」
「うん」
「ラブレター、もらったの」
「........は?」
「OZ経由で....直接会ったことはないんだけど、今夜改めてOZで会うことになってる」
「どうせただのイタズラだよ。行くだけ無駄。」
「うん」
「うん、って...」
「佳主馬なら、きっとそう言うと思ってた」

とても清々しそうに呟いて、はけらりと笑った。そんなに佳主馬は呆れたように溜息をついて、「貸して」と言っての手から携帯を奪う。画面には相変わらず長いメール、とも長いラブレター、とも言える一通が表示してあって、佳主馬はさっとその一通を読んだ。そして何の迷いもなくそれを削除する。そのままの携帯を閉じると、少しだけ納屋がそれ本来の暗闇を取り戻した。

「ダメ、こんなの行く必要ない」
「うん、でも.......相手に申し訳ないから行くだけ行くっていうのは?」

先程の夏希との会話を思い出していたにとってそれは、何の事はないただの疑問であった。しかし、佳主馬はぴくりと眉尻をあげてそれに反応する。彼はちらりと愛用のパソコンの画面を一瞥して再びに向き合うと、自信に満ち溢れた不敵な笑みを薄く浮かべて僅かに首を傾げた。

「その時は、キング・カズマが彼の相手をするだけだよ」

ああ、ラブレターの送り主の為にも、これは絶対に行かないほうがいい。間違いない。夏希にもそう言っておこう。は何の迷いもなくそう腹に決めた。どうか、今夜のOZが平和でありますように。








081509
(覚悟を決めたんだよ、ねえ、我儘ごと愛してよ)