煌めく硝子の破片のような夜風が肌を撫でて、木立が棚引く音が美しい尾のように夜に揺れる。風が歩き回る以外は、静寂に包まれた真夜中の真ん中で、は着込んだフェイクファーのコートの襟元を抱き合わせた。洋服も化粧品も本物志向だが、ファーについてだけは、自ら生き物を飼うようになってからすっかり本物を買うのを止めてしまった。何とも都合のいいことだ。人工的でも防寒の役割はしっかりと果たしている毛並みを撫でて、は辿り着いた門の前で足を止める。ここに戻ってくるのは、酷く久し振りのことだった。潜り戸の足元にある石段に腰掛けて、夜を一段と明るくしている目の前の雪景色を眺める。以前来たのはいつだったか、それすらしっかりとは覚えていない。それどころか、もう来ることはないだろう、とさえ思っていた。それなのに何故ここへ来たのかは、こうして門の前に来てみても、良くは分からないままだ。思い出しただけの気紛れかもしれないし、恋しかったからかもしれないし、懐かしかったからかもしれない。海辺で綺麗な貝殻を集めるように、碌に思い出せもしない当時の記憶を手探りながら、は一つ息をついた。深呼吸のような溜息のあとを透明な静寂が追って、それは星が鳴るような夜に溶けてすぐに凍ったようだった。やはり帰ろう。たった一つの、それも自身に与えられたはずの城への、門さえ潜る勇気が湧かないことを他の様々な理由で塗り潰して、はそっと立ち上がった。ファーのふりをした化学製品に付いた雪を払って、寒さと情けなさと申し訳なさに似た感情で滲みそうになる雫をどうにか追いやる。戻ったって、また長らく離れてしまうかもしれない。それならもうここへは、一度も戻ることのないほうが互いに平和ではないか。

「主」

冬の真夜中に、真っ直ぐで柔らかい音が生まれる。それは、最後に聞いたのがいつだったかすら思い出せないのに、ひどく懐かしい心臓の高鳴りを連れての動きを止めた。咄嗟に呼びそうになった名前を反射的に飲み込んで、息を潜める。そうしたって仕様がないことは分かっていたが、それ以外にこの場でどうすべきか、には分からなかった。声をかけることも、このまま去ることも、自由にできる状態で判断し兼ねていると、門の向こうで僅かに笑みが溢れる音がした。

「......寒くありませんか?何かあれば、いつでもお声を掛けてください。自分はここにおりますので」

凍えるような風が煌めきながらひとつふたつと梢を鳴らして過ぎていくと、生まれてすぐに冷えた雫がの睫毛の影を伝って落ちた。誰にも会うことなく、このまま離れるはずだったのに、にはもはや自身の中に溢れる感情を抑えて全てをなかったことにするなどできそうにもなかった。罪悪感を越えて恋しさが声を生む。

「蜻蛉切」
「は」

迷いなく、変わらない声音にひどく安心する。しかしぼろぼろと涙が落ちて、が続けた言葉はまるで迷子のように心細くて情けなく揺れた。

「潜り戸、開けてくれないかな 開けられなくて」
「...了解しました」

柔らかな声が返って、すぐに潜り戸が開かれる。音もなく細く冷たい風が潜り戸を渡る。宇宙を写す水面のような空で星が鳴って、一つ二つと夜に溶ける。涙を拭って顔を上げると、蜻蛉切が困ったように微笑んで、雪の上に片膝を付いて頭を垂れた。

「お帰りなさいませ。主のご帰還、...お待ちしておりました」

それは花が咲くように静かで、しかしとても美しい、愛のかたちの音だった。






惑星とベルガ






020218