は長らく潜らなかった潜り戸をそっと通って、頭を垂れる蜻蛉切に手を伸ばす。待ち焦がれていた、と言葉にしなくても、それは十分に、二人の間に伝わっていた。衿元を手繰り寄せないファーが揺れて、がぎゅうと抱き寄せた蜻蛉切の頭を、ダイヤモンドのような夜から覆い隠す。主、と少し窘めるように蜻蛉切が呼ぶのを、は聞こえないふりをした。そうして抗議代わりに抱く腕に力を込めると、そうではないのです、と雪明かりに声が静かに染みた。

「泣いておられる」
「そっち?」
「そっちとは?」
「触れたから怒られたのかと思った」
「...お部屋に参りましょう、ここでは冷えます」
「うん」
「失礼致します」

有無を言う間もなく、蜻蛉切はを抱き上げて、部屋へと歩み始める。偽の毛皮を纏ったを、それでもできるだけ風に触れないよう、蜻蛉切の両腕がしっかりと抱き込んでいた。襟から覗く彼の首元に頭を預けて、がひとつ息をつくと、蜻蛉切がちらと視線を寄越してゆるりと瞬きをした。

「......主が触れたから怒るなど自分にはありえません」
「...ありがとう」

歩きながら小さく笑う蜻蛉切の首元へ顔を埋めてが頷くと、蜻蛉切は一度だけ、をそっと撫でる。そうして静かにを縁側の側へ下ろして、靴を脱ぐ主人のために腕を貸した。夜を鳴らして風が吹く。薄氷のような静寂が風に割れて煌めく中で、自室に繋がる縁側へ乗ったと蜻蛉切の双眸がかち合う。しかし、蜻蛉切の指先が優しくの目元を拭って、すぐに視線は逸らされた。まるでたったふたり、宇宙の縁に広がる草原にきてしまったようだった。

「主、あまりお泣きになると目が腫れます」
「蜻蛉切」
「は」

一度外したその視線を不思議そうに戻して言葉を待つ蜻蛉切を眺めながら、は何かを言いかけて開いた唇をそっと結ぶ。もう戻ることはないと思っていた、という誰も知らないたった一つのその事実が、からもはやほとんど全ての言葉を奪っていた。恋しいはずの優しさが、真綿のように喉に詰まって息苦しい。

「もう大丈夫よ。寒いから、早く戻って寝て」
「...では、主に白湯をお持ちしてから、そう致します」

蜻蛉切は、少しの間を眺めたのちそう言って、それ以上は何も言わなかった。そのまま台所へと向かった蜻蛉切をろくに見送りもせず、は自室へと滑り込む。凍えるような寒さで埃っぽいだろうと思っていたその部屋は、しかし長らくの主人の不在など微塵も感じさせないほど、小綺麗であった。部屋の傍らで微かな光を放つ暖のための火が、今日だけのものなのか、毎日置かれていたものなのか。考えずともわかる。ぱた、と畳に雫が落ちる。すべてが凍えそうな真冬の真ん中で、この部屋だけが守られていた。きっと蜻蛉切はずっと、迷うことも疑うこともなかったに違いない。自分の主が誰であるべきか、その一点において。彼はそういう男だ。

「主、失礼致します」

するりと、とても静かに襖を開けて部屋へ入ると、蜻蛉切は盆に載せた白湯を畳の上に置いて、はたと動きを止める。ぱた、と畳を雫が叩く。蜻蛉切にとって、その冷たくてきれいな宝石の粒は、この世で最も愛おしく、そして最も恐ろしいものだった。部屋の襖を閉めた場所で、そっと座して視線を落とす。が泣くとき、蜻蛉切はいつも、少し離れたところで静寂と連なって座した。焼けるようなもどかしさが胸の内を焦がしても、溶けるような愛おしさが心を揺らしても、彼女が彼の名前を呼ぶまでは決して邪魔をしない。それが、蜻蛉切の中での決まり事だった。しかし、

「ごめんなさい」

聞こえたのはかつてのような自らを呼ぶ声ではなかった。落としていた視線を上げて、を見遣る。黒瑪瑙のような夜よりなお深い色の毛皮に包まれる小柄な体がしゃくり上げて泣いているのを、蜻蛉切は今度こそ黙って待つことができなかった。守らなくてはと半ば本能のように思う。しゅるり、と衣擦れの音が冬の夜の温い闇を鳴らす。

「謝る必要などありません」

片膝を立てて、そっと傍へ控えた蜻蛉切の手のひらがの目元を覆う手をやんわりと掴む。大粒の涙がぱた、と畳へ落ちて、蜻蛉切の視線がの双眸を捕まえる。襖の向こうで、冬が鳴る。何についての謝罪なのか、蜻蛉切には容易に想像がついた。

「みな主を心待ちにしておりました。きっと大層喜ぶでしょう」
「でも」
殿」

ほんの僅かに手首を掴む力を強める。夜に溶けるように呼ばれた名前に、長い睫毛を伝って雫がひとつ、蜻蛉切の頬に落ちた。迷子のような双眸が揺れて、朱を差したような目元が孤独を彩る。蜻蛉切、と辛うじて音になった名前に、蜻蛉切は心の臓が震える心地がした。久しぶりに触れる愛しい女の香りが鼻先を掠める。掴んでいた手首を離し、目元の雫を拭うと、はするりと脱力するように蜻蛉切の腕の中へ収まった。真冬の夜に、早鐘のように鳴っている熱い鼓動がどちらのものか、分からないほどぎゅうと強く抱き込まれる。

「...心配することなどありません。自分の気持ちも、変わらずここに」

ぱち、と火が弾む音がする。蜻蛉切の視線が腕の中のと交わると、の双眸から熱い雫がぽたりと落ちる。その後は、何の迷いも通さない門の先だった。互いを思い出すように触れて、確かめるように唇を重ねる。溢れる吐息の合間に、蜻蛉切の柘榴石のような髪がするりとその肩口からの毛皮の上へ落ちる。欲情を秘めた双眸が溺れそうになるを捉え、愛情深い声音が道を示すようにその名をもう一度呼んだ。筋骨隆々とした蜻蛉切の手がの薄くて細い手を守るように重ねられている。

「そろそろお休みにならなくては」
「...蜻蛉切、今日はここで、一緒に寝てくれない?」
「主」

嗜めるように呼ばれたいつもの呼び名に、は小さく苦笑した。今さっきまで、明らかにそういう雰囲気でそういう流れだったのに、蜻蛉切はいつだって決して雰囲気には呑まれない。命令でない限りは、自らで決める。それを揺るがすことはできても、結局いつも最後に折れるのはこちら側だったことを、は懐かしく思い出した。しかし、そういう意味じゃなくても、と諦め悪く縋ると蜻蛉切は珍しく、

「では、主がお眠りになるまでお側におりましょう」

と言っての頬を指先でなぞって、溜息の合間に微かに笑んだ。







星の海の深いところで






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