「主、ひとつ頼みがある」

長曾祢がそう切り出したとき、それが何のことかは言わずとも知れた。いいよ、と言いかけた唇を結んで、はじっと自身を下から見上げてくる長曾祢を眺める。このタイミングで言うことか、と思った。男女の行為のあとの怠惰を二人で食みながら、ちょうど掴んだ眠気に身を委ねようとしていたところではないか。ましてや、互いの体もまだ繋がったままだ。それなのに、彼はもうこの瞬間にはいない。それが、今のには何故だかとても寂しく思えた。

「すまない、今言うべきではなかったな」
「嫌い」
「主、悪かった」

謝る長曾祢の声は真面目で、しかし酷く穏やかなものだった。長曾祢の腹の上に起き上がって、暗闇のなか自身を見下ろす女主人の姿は美しく、そうして寂しい。嫌いと口にしながら、伸ばされた長曾祢の手を指先で掴む直情的な素直さも、恋しいと言うその真っ直ぐな双眸も、長曾祢にはいつだって堪らなく愛しく思えた。しかしそう思う度、他でもない贋作の自分がこれを受けて良いものか、という疑念が頭の片隅で首をもたげるのだった。

「いいよ」

頼みごととやらに対する返事をして海の底のような静寂を壊すと、愛しさと寂しさが一緒に割れて、それ以上のことが言えなくなる。は長曾祢のことが好きだった。彼が望み、彼の糧になり支えとなることなら、そもそも最初から妨げるつもりなど少しもなかった。ただ、自身の手元から離す不安と寂しさがあることも真実で、今はそれを誤魔化すほどの大人になりたくなかっただけだ。素直と言えば聞こえは良いが、長曾祢を自身の安いわがままに付き合わせていると思えば、自己嫌悪がやってくる。だからそれを振り払うように、はもう一度、いいよ、と言った。

「本当か?」

指先だけで触れていた長曾祢の手が、静かにの手を掴む。それは痛いほど強くもなかったが、嘘が許されるほど弱くもなかった。

「うん、本当」
「有り難い」
「...でも寂しい」

するりと溢れた言葉が二人の合間を渡って夜に溶ける。長曽祢は僅かに目を瞠ったが、口にするつもりのなかったは長曾祢の視線には応えるつもりがないようだった。しかしそんなことは、長らく彼女の近侍を勤め、全てを見ることを許されてきた長曾祢にとって、何の問題でもない。



それは、二人のあいだを離れたら消えてしまうほどの音だった。長曾祢は、反射的に視線を寄越したの腰を引く。余韻のような快楽が滲んで、二人の視線が交わる。長曽祢に見詰められる度、この男に愛でられ、守られる女でいたい、と思うのはもはやにとって殆ど本能のようなものだ。まだ体は確かに繋がっているのに恋しくて恋しくて堪らなかった。

「おれも寂しい」

長曽祢の優しく凜とした声がの睫毛に触れて、ぱた、と大粒の雫が落ちた。それは夜を渡る星のような、一瞬の煌めきだった。名を呼ぶの声を、身を起こした長曽祢が奪う。そうして幾度も口付けを繰り返しながら長曽祢が剥き出しになったの柔肌を撫で上げると、ふたりで寂しいなら寂しくない気がする、とが泣きながら小さく笑った。







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030118