なんだかんだで、一番初め、というのは感慨深く、思入れも深く、忘れられないものだ。はじめての恋とか、はじめてのキスとか、はじめてのデートとか。はじめて買ったCDとか、はじめて作ったお菓子とか。普段は忘れていても、人生のふとした時に思い出してしまったりする。はじめて、というものが、大した心構えもなく選んでしまったものでさえ特別にしてしまうことに気付いたのは、いつ頃だろうか。春の日差しを浴びて暖かい縁側を裸足で歩きながら、わたしは賑やかそうな居間の襖を勢いよく開けた。

「加州~~~」

ざわ、と部屋がどよめいて、主だの、主さまだの、大将だの、様々な声がする。どうやら短刀と、それから何人か打刀がいるようだが、目当ての一人は見当たらない。着けかけていた腕時計を嵌めながら、んん、と唇を僅かに尖らせると、背後からシャツの裾を引かれてわたしは振り返った。そして振り返り様にぎゅうとそれを抱きしめる。この裾を引く癖があるのは数多の刀がいるこの本丸でもひとりだけだ。

「お小夜」
「主、加州さんならさっき向こうでみたよ」
「あら、ありがとう」

ぎゅうぎゅうと抱きしめられるがまま、小夜は少しばかり照れ臭そうに笑う。ああ、かわいい。頭を撫でるついでに腕時計を確認すると、時計は9時40分を指していた。確か約束の時間は10時半だったはずだ。わたしは小夜をこのまま連れて行きたい気持ちを抑えて、そっと彼を解放した。僕もわたしもと居間から飛び出してくる短刀たちのきらきらとした目に、また今度、と言って、小夜が教えてくれた方角へ向かう。ざあ、と春の風が吹いて、青草に混じって桜の香りがする。そういえば初めて桜をみたのは、家族で地元の桜祭りに行った時だったが、覚えている限りあれは夜だった。初めての桜の記憶が夜桜なんて、もしかしてちょっとお洒落なのではないか。お父さんお母さんありがとう。そんな薄くて軽い感謝を心の中に広げながら、吹く風に釣られて深呼吸する。昨晩、近侍の燭台切が持ってきた手紙をみたときには差出人の政府に考えうる限りの暴言と悪態と苛立ちを吐いたが、こうして春風に吹かれてみるとたまには早起きもいいものだ。

「加州~~~ッ 加州清光~!」

縁側のへりに立って、見当たらない姿に声をかける。時間もないし、裸足だし、道場か畑か風呂場か、離れだと面倒臭いなと思いながらもう一度腕時計に目を落とす。こう言う時、長谷部なら最初の一声どころか一文字ないしは息を吸ったくらいのところですっ飛んできそうなものなのに。いや、半ば慣れて忘れてしまいがちだったが、それはそれで、普通に考えたら凄まじく恐ろしいことだった。そういえばはじめて彼が顕現したときは、そのドドンパの如き勢いに戸惑ったものだ。邪魔にして雑に結っていた髪を解きながら踵を返して、来た時よりも足早にもう一度居間へ戻る。襖を開けて、ねえ、と言うと、先程と同じ面子が律儀にわたしの声を待って視線を寄越したが、屋敷の奥からドタバタと騒々しく駆ける音がして結局わたしはその先を言う機会には出会わなかった。はじめてこの本丸にきた時、右も左も、なにもわからないわたしと一緒に、一歩を踏み出してくれた足音がする。

「主!ごめん呼んだ?!」

何事かとさぞや心配したのだろう、動揺を隠さずに臙脂色の着物がすっ飛んでくる。しかし動揺する彼を眺めながら、わたしは春の日差しに揺れる黒髪が美しいなと暢気なことを考えていた。はじめて出会った頃も、彼はわたしのせいでよくこうして本丸を走っていた。

「加州、すぐ出掛ける支度して」
「え」
「え、じゃない 呼び出しされてるの わたしも準備まだだけど急いで」
「俺?近侍は燭台切じゃなかった?」

普段はあんなに、一番の古参は俺、最初の一振りは俺、なんて調子よく言っているくせに、こういう時に彼のその自信が顔を見せることはない。尊大な態度を持っているかと思えば存外に不安で、場の空気を和ませたかと思えば仮面の下は孤独。わたしたちは、どこか似ている。はじめて出会ってから何度も思ったが、結局今まで一度も口にすることのなかった一言が不意に脳裏をよぎる。ねえ、と頓狂な顔をしている加州には一瞥だけをくれてやって、わたしは部屋でじっとこちらを見詰める小夜を呼びつけた。寄ってくる間に腕に視線を落とす。9時52分。まずい。

「お小夜、ごめんお願いしたいことがあったんだけどやっぱりいいや」
「わかった」
「うん」

もう慣例となったハグを思い切りして、ついでに頬擦りもして、ことの成り行きを見守る必要もないのに見守っていた加州を今度こそ嗾けて、わたしは走って自室へ戻る。近侍の燭台切が、主は出掛けるとなるとどうやったってドタバタするのはどうしてかな、と困ったように笑って部屋の外へ控えるのを横目に、シャツだけ済ませていた着替えを全て済ませ、ベースだけ済ませていた化粧を終わらせる。時計はちょうど10時を指したところだった。廊下で加州と燭台切の声がして、わたしはこの間買ったブランドバッグと靴を抱えて襖を開ける。金色と赤の2対の双眸が、寸分違わぬタイミングでわたしを振り返る。

「へえ...!普段とは雰囲気がだいぶ違うね。綺麗だよ、主」
「えへ...」
「はいはい、ニヤついてないで。髪、結うんでしょ。座りなよ」
「時間ないから急いでね」

加州と燭台切が空けてくれた場所にすとんと腰を下ろしたわたしをぐいと横向きにさせて、加州は手際よく手櫛で髪を梳いて結い上げていく。背中から、先程燭台切に頂戴したお小言と同じものを投げられて苦笑すると、ぱちりと燭台切と目が合った。夕日に染まる稲穂色の隻眼が真っ直ぐにわたしを見下ろして、さすが加州くんだね、と言うので、わたしはもう一度苦笑する。はじめて与えられた刀剣だからね、なんて言わなくてもきっと加州がドヤ顔で言うだろうと思って口を噤んだのに、加州は何も言わずにいつものようにわたしの頭を一度撫でて立ち上がった。行くよ、と言われて慌てて靴を履く。腕時計は10時5分。よかった、間に合いそうだ。

「ねえ、

燭台切に見送られて門を出てすぐ、横を歩く加州がいつもの調子でわたしを呼ぶ。他の刀剣がいない時、彼はわたしを主と呼ばない。返事の代わりに視線を投げると、自分で呼んだくせに加州は桜の香りに釣られてどこぞの屋敷の庭を眺めていた。こつこつと二人分のヒールの音が小道に反響して、ひらりひらりと桜が降る。帯刀した自身の刀の柄を撫でながら、加州がわたしに視線を戻す。長い睫毛の合間から降り注ぐ陽の光に反射して、アルデバランの双眸が宝玉のように煌めいていた。この世で何よりうつくしいとさえ思う双眸に真っ直ぐに見つめられると、心が揺れて、いつだってわたしの世界は綺麗なもので満たされる。

「これって俺、愛されてるってことだよね」
「...これって?」
「俺を連れてってくれること」
「あら、知らなかったの?」

ようやく顔を覗かせた彼の自信に少し意地の悪い笑みを返す。分かっていて言わせたいなんて彼も随分と悪い人だ。桜が滲む強い風が吹いて、目白が木から飛び立つ音がする。加州の手が刀の柄を離れる。

「知らなかったかも」
「わたしの最初の刀なのに」

そっと指先に力を込める。一回り大きな手が宥めるように肌を撫でて、音もなく結びが強まる。

「そうね」

腕時計に目を落とすことができなくて、今が何時なのか、もう分からない。あんなに急いだのに、結局遅刻かもしれない、と思ったが、それでもいい。数年前のあの日、わたしの手を引いて一歩を踏み出した彼が、今も変わらず手を引いてくれることが、何より嬉しくて、何より愛しい。だらしがないと怒られる程度、きっとわたしは何遍でも何年でも繰り返すだろう。そうしてその度、彼が呆れたような目で小言をこぼすのだ。

「加州」
「ん?」
「ありがとう」
「...どういたしまして。」






最初の魔法に呪文はいらない




040518