主、と襖の向こうから声がする。小夜左文字だ。それは夕闇が滲んで、空が鮮やかな紺碧へ変わりかけた頃だった。わたしは顔を上げて、小夜を招き入れる。するりと襖が開いて、小夜が少し様子を伺うようにして部屋へ足を踏み入れるのを仕事机の上に頬杖をつきながら眺めていると、小夜はたった一言だけ、手紙、と言ってそれをわたしに手渡した。

「加州さんから」
「うん」
「...読まないの?」
「読むよ」

差し出された手紙を机の上に置いて、わたしは小夜にかける次の言葉を探した。しかし沈黙の海の底できらりきらりと輝くのは酸素の泡だけで、結局わたしは何一つ言葉を見つけることができなかった。側に控える小夜が、主、ともう一度わたしを呼ぶ。極となってから、少しばかり心配性になった小夜の声は、いつもより少し優しい。

「心配?」
「うん」
「大丈夫...ちょっとの間だけなんだから」
「うん」

ありがとう、と言うと、小夜はそのままほんの少しだけ笑みを浮かべて、もうすぐ夕飯だよ、と言って部屋を後にした。わたしはそれにも同じ返事をして、再び訪れた静寂の中、手紙を掴んで畳の上に倒れこむ。修行なんて、すでに何振りも送り出している。その度に不安だったり、寂しかったり、手紙で安堵したり、目頭が熱くなったりしたけれど、こんな心地になったことは一度もなかった。大丈夫と小夜が言ったことを思い出す。わたしだって、彼が大丈夫なことは、分かっている。大丈夫じゃないのは、たぶん、わたしのほうだ。障子の向こうで、夕闇に心地よい葉擦れの音が、寄せては返す波のように鳴る。手紙を開けて、読む間、わたしは一度も瞬きができなかった。誰も見てなどいないのに、その雫を落としては、いけないきがした。

「主、入るよ」

わあ、と頭上から声が降って、それを追うように柔らかな初夏の風が吹き付ける。青々とした緑の香りの夜だ。わたしは、うん、とすでに部屋へ足を踏み入れているその存在に、畳の上から返事をする。

「まったく、お小夜が言うから来てみたら...きみは本当に仕様がない人だね」
「歌仙」
「ほら、起きなさい」
「う」

側にこれでもかというほど美しく座した歌仙が、とん、と一度畳を指先で叩く。歌仙は古参の一振りとしてわたしに容赦がない刀剣のひとつで、だからこそわたしが気兼ねなく接している一振りでもあった。のそりと畳の上に起き上がって、指先に触れる手紙を静かに畳む。加州くんかい、という歌仙の声が、いつもより僅かに柔らかくて、わたしは小さく頷いてぐっと唇を噛んだ。ざあ、と夜の庭が海の音を奏でる。

「主、そんなに無理をしなくてもいいんだよ」

歌仙の言葉に一度だけ首を振って、わたしは立ち上がって手にしていた文を机の引き出しへと丁寧に仕舞い込む。わたしが審神者になって以来、ここに加州がいなかったことなど一度だってなかった。わたしが不在にすることはあっても、加州はいつも本丸にいて、怒ったり呆れたりしながらわたしの手を引いてくれていた。加州の不在に心が勝手にざわついて、理由もなく泣きたくなるのは、わたしがずっとそんな加州に甘えていたせいなのかもしれない。しっかりしなくては、と思うのに、甘えられていた相手を手放すことを惜しいと思ってしまう、わたしは完璧な大人のふりをしたとんでもない子供だった。

「困ったね...無理をしなくてもいい、と言っているだろう」
「そんなに顔に出る?」
「ああ、とっても分かりやすいね、きみは」

畳から腰を上げて、視線の高さが逆転した歌仙が笑みを零すように溜息を生む。静寂が揺れて、歌仙の睫毛の影をなぞるように落ちていく。さあ、夕餉の準備が出来ているよ、と歌仙が襖を開けてわたしの歩みを促すと、遠くでいつも通りの賑やかな喧騒が弾けるように響いていた。





スピネルの灯台


070318