ただいま、という声は聞こえなかったが、突如湧いた普段聞かない歓声が彼の帰還を告げていた。わたしは遅々として進まない書面から顔を上げて、一度大きく息を吸う。会いたい気持ちと、果たしてどんな様相となったのか分からない不安で息が詰まりそうだった。ざあざあと、太陽の熱を冷ますような夕暮れの風が夜の帳を下ろしていく。近侍は小夜のはずだったのに、主が阿呆になって職務怠慢では困ると言って小夜の代わりに側に控える歌仙兼定が、行くかい、とわたしに尋ねる。

「...うん」

では行こうかと、しゅるりととても優雅な衣擦れの音と共に腰を上げて、歌仙は紅を添えた双眸を僅かに細めた。本丸に続く廊下を渡りながら、ぎゅうと歌仙の着物の袖を掴む自らの女主人は、だいぶ緊張しているようだった。この様子を加州が見たら、なんと言うだろう。こんなに期待されている刀剣は、今や多くの刀剣が揃い、大事に扱われるこの本丸にもそうそういない。初期刀、と呼ばれて主の第一歩から側にいたことの幸運を、修行を終えて帰ってきた加州はきっと今まで以上に自覚しているはずだ。

「ほら、主、着いたよ」
「うん」
「あ!主さま」
「よかった、今呼びに行こうかと」

パタパタと駆け寄ってくる短刀に、うん、と笑んで、わたしは囲まれるようにして中心にいる存在に視線を向ける。見覚えのある、けれども初めて目にする姿は、夕闇に染まる中で少し照れ臭そうにこちらを見詰めていた。夕闇と星空が重なって、トパーズを砕いて煌めくような沈黙が庭に降る。気がつくよりはやく双眸から、ぱた、と雫が落ちる。主、と隣に立つ歌仙の声がする。嬉しさも、不安も、緊張も、何一つ綺麗には当てはまらない涙がぼろぼろと溢れて、わたしはコントロールできない自分の感情に混乱した。ずっと、大切に思ってきた一振りの刀が、自らの意思で強くなりたいと願って、自らの意思でここへ戻ってきたことが、とても嬉しいことは確かだった。しかし、この一振りに対しては、きっとそれだけではない。主、と聞き慣れた声がして、その迷いのない腕がわたしを引き寄せて抱きしめる。

「なに、そんなに俺のこと恋しかった?」

ごめん、と耳元で囁くような優しい声が鳴る。頭上で微かに笑う気配がして、抱き寄せる腕の力が僅かに強まる。懐かしい匂いがする。おかえり、とも、ただいま、とも言わないまま、ただ抱きしめられて、周囲の刀剣が囃し立てる中、わたしの涙は落ちることなく加州のコートへと滲んでいった。ざあ、と一陣の風が吹いても、音がするばかりでわたしの熱を持った頬まで届かない。ねえ、と加州がわたしの頭を一つ撫でて、するりとその片手をわたしの肩から腕へと滑らせる。

「歌仙の袖、放してやりなよ」
「やれやれ、僕の袖を放して欲しいのはきみのほうだろう、加州」
「あー、まあ、うん...そうね」

指先を絡め取ってわたしの手を捉えると、泣き止んだ?と言って加州はわたしの顔を覗き込む。相変わらずうつくしいルビーのような双眸がまっすぐにわたしに向けられて視線が交わると、ひどく愛おしいものを見つめるように、それが柔らかく細められた。こんな顔をみたのは初めてのような気がする。そうしてようやくわたしは周囲の刀剣の視線を自覚して、両手で涙を拭って笑う。頬を撫でる夜風が、台所の香りを運んで空腹を誘う。

「もう大丈夫、泣いたらお腹すいた」
「...じゃあ続きは、晩ごはんのあとね」

耳元で消えてしまうような声音で、誰にも届かないように告げて加州は仕切り直すように周囲に向き直った。その背中を眺めながら、旅に出ないと成長できない、と言って修行の帰りを待つわたしを彼がよく宥めていたことを、思い出す。晩ご飯のために広間へ向かう刀剣たちの姿を追って初夏の風が吹く。あっという間に静寂に支配された庭で、佇むわたしの側に控える歌仙が小さく笑いながら溜息をついた。そうして、わたしたちも、と広間に向かおうとするわたしの襟首を掴んで逆方向へと引く。

「ちょっと歌仙くん」
「きみは泣いたその顔で夕餉を頂くのかい」

リボンで結わえた歌仙の藤色の髪が優雅に夜に揺れる。紅を添えた瞳が安堵の色を湛えて、お腹が空いたと駄々を捏ねるわたしを見る。そして夜のとばりが降りた世界で聞こえた声は、まるで大切な歌を歌うように、とても優しい音をしていた。

「すこし綺麗にしなさい、今日くらいは」




ルビーの心臓

070418