久しぶりに熱を出した。食べたものは悉く戻し、背筋を悪寒が走って、えも言われぬ具合の悪さだけが体を満たしている。石切丸が祈祷を、燭台切が薬膳を誂えてくれたものの、その劣悪な体調から逃れることはできず、正直なところ点滴と抗生物質で途端に楽になる不思議が恋しい、とさえは思った。近侍の歌仙だけが、敷いた布団の傍らで呆れたようにを見て溜息をつく。ただの風邪の類いで本丸が大騒ぎになるのは避けたかったが、しかし気が付いたときにはすでに本丸は、世界が滅びるかのような非常事態になっていた。

「きみはどうしてだか年に一度必ずこの病を拾ってくるね」

殆ど無音の部屋にその音は心地よい。近侍がこうして主の世話に掛かりきりのため、大騒ぎしている刀剣の監督を日本号と蜻蛉切が行い、主寝室の側に控えての病と人払いを大典太と数珠丸が担っていると歌仙が言った。

「ありがたい…」
「良いから少し寝なさい」

声、ガラガラじゃないか。そう言って歌仙が立ち上がる。桶を手に部屋を出て行った彼の後を埋めるように、艶やかな静寂が部屋を染めていった。はそっと目を閉じて、そうして間も無く再び瞼を持ち上げる。寝ようにもずっと布団の中でろくに動きもせず過ごしているのだ。そう寝れるわけもない。水中のような静寂が冷え冷えと頬を撫でる中、心地よい静けさに揺られながらひとつ瞬きをすると、縁側を擦る布の音がした。それは、よく聞く歌仙のものではなかった。丁重に人払いをされているはずの主寝室に近侍以外がやってくるなど何かあったのだろうかという不安が過ぎる。ぎし、と障子の前でそれは立ち止まって、次の瞬きの合間には酷く優雅に、主、と言った。それは昨晩遠征に送り出した、三日月宗近だった。一瞬よぎった不安は、そのたおやかな声音に散らされる。

「入るぞ」
「おかえり、宗近」
「ふむ...なかなか苦しそうだな」
「熱がね」

下がらなくて。そう言ったの傍に腰を下ろして、三日月宗近はその美しい双眸で自らの女主人を眺めた。それは好奇心の欠けた医者のような視線だったが、この本丸を立ち上げて間もない頃の誕生日に彼が顕現して以来、その視線の先に居続けてきたには、そこに潜む冷静さと誠実はもはや疑いようのない事実であった。言葉数が多いわけでも、常に傍にいるというわけでもないのに、助けが必要な時には必ずその双眸と出会う。不安に駆られていることに気付いた時にはいつも傍にいる。保護者のようであり、相談役であり、恋心が向かう先。それが、にとっての三日月宗近だった。

「帰ってきたら本丸が大層な騒ぎで驚いたが、ここは静かでよいな」
「人払いをしてもらってるからね」
「なるほど」
「遠征は?」
「恙無く」

掠れた声で問うと、柔らかな笑みを口元に添えて、三日月が歌うように美しい返事をする。ひとつ瞬きが落ちて、しゃらりと髪飾りが揺れる。長い睫毛の合間から覗く、宇宙を閉じ込めた双眸と出会うと、星が生まれたような奇跡を味わう。凛と佇む三日月は、何億光年先と知ってなお求めることを止められない、宇宙に散らばる如何なる星より美しく揺るぎなかった。しゃらり、と再び涼やかな金属の音が鳴る。

「着替え、してきたら」
「はっはっは、これはそなたも随分と無粋なことを言う」

そうだなあ。三日月は緩く笑って、そっとの額を指先で撫でる。宝玉を砕いたような陽光が障子の向こうから滲んで部屋に降り注ぐ。

、俺が着替えもせずにここへ来たのは、なにも報告のためだけではないぞ」

子守唄のような声音が心地よく耳に溶ける。熱と悪寒で大層辛いはずの体の苦しみを、彼の声が追い払う。それは神だとか、人ではないとか、そういった人智を超えた類の話を理由にするには不釣り合いなほど、優しい音をしていた。祈祷も薬膳も病祓いもついに逸らせなかった苦痛への意識を、三日月はいとも容易く解いて彼のもとに結んでしまう。うつくしくてやさしい瞳が、とても深いところに愛情を潜めてを見詰める。ひどく原始的な感情が、切ないほど鮮やかに満ちていく。そうして幾度も幾度も、与えられてきた柔らかな心が、溶けるようにの唇に触れて、離れた。彗星の尾のように静寂が煌めいてその後を追う。病を祓う力もご利益もないが、と三日月がとても嬉しそうに微笑う。

「そなたの苦しみは、俺がいちばん上手に払ってやれるそうだ。やあ、嬉しいな」

するりとが伸ばした手で三日月の頬を撫でると、具合の悪いのも忘れて、は一つ小さく笑った。しゃらりと星の流れるように、髪飾りが鳴る。すきよ、と願い事のようにその言葉を口にすれば、三日月宗近は静寂を壊さないまま、その美しい双眸を柔らかく細めて慈しむように微笑んだ。




トパーズの午後


082018