人間てモンは こんなにも不安定

目を開けて見えたのは いつも目を覚ます実家のあたしの部屋の天井ではなく、かといって時々愛し合う彼のベットの上から見える天井でもなく薬品や病人の息が沁み込んだような、
くすんだ白の天井だった。どうしたんだろうと思う。ただ 体が気だるくて頭がまるで岩のように重くて、そうして途轍もなく泣きたいと訴えているあたしのこの貧弱な心だけがその存在を密やかに訴えていた。
思い起こせば、話は三日前に遡る。その日はいつもよりも随分と気温の高い日で、体育の授業場所に指定された体育館は体温と同じ位あるんじゃないかと思うぐらい暑かった。体育館は前の時間の授業の熱をたらふく食った後で、入った瞬間にじとりと嫌な汗が肌に纏わり付く。クラスの大半はまるで鉄板の上で踊らされているベーコンのように無口で(要するにとても不機嫌)時たま口を開くと思えば
ベーコンが弾き飛ばす油のように攻撃的な態度で迂闊に冗談も言えない雰囲気だった。
そうして間も無く教師がやってきて、点呼を取って、授業が始まったはずだ。もしもあたしが
生理と夏風邪と高気温に平伏さなかったならば。
ああ、と小さく呟く。それは呟きというより呼吸に混じってあまり意味を成さなかったけれど。倒れたその後、脈も弱くて完全にバテていたあたしは病院に担ぎ込まれたらしく、さらにそこで医者に一週間の入院を強いられた。せめて貧血の恐れのある一週間は、ということらしいが
点滴をしている辺り もう既に貧血なのだろうと思う。嫌々に首を回して カレンダーを眺める。実家のカレンダーには今日の日付に赤い丸が付けられているのを思い出した。こんな事態だけは避けたかったのに。
だけど同時に、このどうしようもなく人恋しく不安なあたしを満たして欲しいと思う。
どこまででも我侭になれるあたしが 少し恐ろしかった。
目を閉じて、もしもを考える。もしも、今日遠征から帰ってくる彼が、誰かからこの事実の情報を得ていたとして。自分の体の休養もせずに素っ飛んできたら。
きっと口では 帰れというだろう。心配する言葉を並べて 眉を下げて 不安気に。けれど本心は違う。あたしの心はいつだって
彼の特別な位置を占めて居たいと思う貪欲なものだ。18年間その貪欲さと付き合ってきて
それは痛いほど身に染みて分かっている。だからきっと心では 占めたと笑うだろう。傲慢な言葉を並べて
何を言ったら一番効果的かを 考えて。
だがこの謙遜を知らないあたしの心よりも、彼は来るだろうという漠然とした確信が恐ろしい。当たり前になっている日常ほど
あっけなく壊れやすいからだ。それは明日もあるだろうと思う根拠の無い確信の所為なのかもしれないけれども。
彼は来る。
心の拠り所を探すあたしは 断固としてそう信じて疑わなかった。そうしてその一時間後、誰かが仕立て上げた脚本のように
あたしのテリトリーと外界との境界線は音を立てて開けられる。
「…」
「………彰?」
来た。
開けた境界線を静かに閉めて、彼はベットの横に置かれた椅子に座る。その顔はいつもより余裕がない。占めた。確かにあたしはそう思った。だけどどうしてか傲慢な言葉は脳内に浮かばない。
「なにしてんのお前は…」
「……、ごめ…ん」
溜息と一緒に吐き出された声は三日ぶりに聴く音。どうやら あたしの視界が歪むのと
思考が先に進まないのはその音の所為らしい。胸が詰まる。
「クラスの奴らからお前が倒れたってメールが一斉に来」
「彰」
起き上がって、手伝おうと差し伸べられた大きな手を伝って、彰の体を抱き締めた。涙腺が弱いのは病院なんかに居る所為だ。病気になると死ぬほど寂しくなるのは何でだろう。泣きながら必死に縋りつくあたしに
彰が苦笑して参ったなと言った。
「よしよし」
「…、……」
完全に思考は止まっている。どの言葉を言ったら より彼の心を占められるかだなんて、そんな事を考える余裕など微塵も無くなっていた。傲慢になるよりむしろ臆病になっていく。
「あ…明日も部活でしょ?いいよもう。帰って、休んで。」
「………」
彰の体から離れたあたしをいつもの緩慢な笑顔で眺めた後 彰は穏やかにあたしの名前を呼んだ。
「そんなに気弱になってるお前を置いてなんて帰れない」
「あたしは」
「それに、はもっと欲張りだよね」
「……ちが…」
「違わない」
違う、そういい掛けたあたしの唇を意図も容易く塞いでしまって、彰はまたにっこりと笑った。
「さて、何の話をしよーか?」
そう告げる彼は病人を前にしているというのに至極嬉しそうだ。
062605/071206修正
ヒーローは望めば必ず現れる