その夜は、止まぬ雨に併せて急に寒さが戻ってきた暗い夜であった。街灯の柔らかな光がぽつぽつと滲むように窓の向こうに見える。雨が窓に当たるのを見ながら寒そうだなと思ったが、室内は言うほど寒くない。この部屋の持ち主が、案外気の利く人だというのが何となく分かって、何だか嫌だな、と思った。何につけてもわざとらしい。きっとこれも、わたしがこういう思考をするであろう事まで分かった上でやっているに違いない。そっと視線を窓から逸らして、室内で一番大きな仕事机の上を見遣る。重要なのかそうでないのか分からないような有り様で書類が乱雑に積み上がっている。理事長という立場にあるこの部屋の主人は、関係者その他のほぼ全員から真っ当な信頼を得られていないピエロみたいな男だが、それでもやることはやっている。手を抜けるところでは思いっきり手を抜くのは悪い癖だが、学園の仕事で夜遅くまで机に向かうことだってある。ただ、悪魔である彼が何のためにそんな苦労を、という疑念は、やはり晴れない。わたしだって、彼の一字一句全てを信じたりはしない。多くの人が疑うというのはやはりそれなりの理由があるのだろうし、それに何より彼は悪魔でそして権力者だ。二重の意味で信用ならない。信用ならないのに。
「おや、まだ起きていたんですか」
「メフィスト」
ガチャリと扉が開いて、続く低い声に雨音が掻き消される。白いスーツを着て、まるで演劇の衣装のような派手なスカーフを巻いた酷く長身の男が、帽子を脱ぎながらひとつわざとらしく溜息を吐いた。わたしは突然の事態で咄嗟には広げた思考を片付けきれず、くるりとメフィストに背を向けて窓の向こうを見る。窓に反射して見える彼が、いつもよりフォーマルな服装なところをみると、本部かどこか重要なところに行っていたんだろう。
「ちょっと、考え事」
「......」
一度だけ目が合ったことに知らぬ振りをして、ぺたぺたと裸足のまま窓際から離れる。寝室に向かおうとして纏めていた髪を解くと、雨の音に重なって小さく笑う気配がした。釣れないな。そう言ってメフィストはわたしの腰を引きよせて慣れた手つきで抱き上げる。解いたばかりのわたしの髪が揺れて、シャンプーの匂いが香る。春の花の匂いだ。一方でメフィストからは、いつも透き通った香水の匂いがした。果実やハーブの香りのそれは、少なくともわたしが彼と出会った頃から少しも変わらない。おかげで、どんな時でも、それこそ酷く腹を立てている時でさえ、この匂いを嗅ぐと安心した。メフィストの肩に頭を預けると、彼はわたしの頭を撫でる。これもいつも同じだった。
「どうしたんです」
「わたし」
雨の音がした。メフィストはわたしを抱えて寝室へと向かいながら、ただ黙ってわたしの次の言葉を待っているようだった。どうせわたしが何を考えていたのかくらいはお見通しなんだろうが、絶対にそれを口にしないのが彼だ。知らない振りがまたわざとらしくて、疑おうと思えば何もかもが、演技に見える。自分の側に付いてくれると信じられない人間を、これ以上わたしの心に踏み込ませてもいいのだろうか。彼は信用できる、やるべきことはやってる、わたしのことも大切にしてくれる。今まで、そう思ってきた。でも、果たして本当にそうだろうか。わたしはわたし自身の心を肯定したくて、求めるものを与えたくて、そう言い聞かせているだけなのではないだろうか。
「お前は本当に怖がりだ」
「どうしたらいいの」
「....」
「ダメだって分かってて、でも進みたくなるのこの一本道しか、わたしには見えなくて」
わたしはメフィストの肩に頭を預けたまま、涙で震えた声を押し出した。きっと、他にも道はいっぱいある。ここじゃなくたって、きっとわたしが笑える場所はある。ここじゃなくたって、きっとわたしが生きていくのに不便なんてしない。それなのに、どうして。
「ここじゃなきゃ嫌なの」
わたしの言葉には返さず、ぼす、と音を立ててメフィストはわたしをベッドの上に落とした。瞬きをすると、溢れた涙が目尻から耳元へと垂れてくすぐったい。鮮明になった視界で見上げると、いつの間にか、メフィストは寝巻へと着替えていた。手袋をしない指先がわたしの頬を撫でる。冷たい。
「」
「ん」
「"ここじゃなきゃ嫌"なんだろう?」
雨音。雨音。雨音。ああ、酷い降り方だ。メフィストの声の奥で、雨の音がする。わたしの涙を冷たい指先で掬って、ペリドットの美しい双眸でわたしを捉えて、首筋にわざと牙を滑らせて、彼は喉の奥で嗤う。
「判らんな、お前は一体何を悩んでいる?」
「あんたを、選ぶか、どうするか」
「はっはっは」
それは腹の底からの軽やかな笑い声だった。首筋から胸元へと口づけを落とす途中で、メフィストはわたしの黒いワンピースの中にするりと手を滑り込ませながら、愉快だ、と言って笑った。微かな息が肌を撫でて、思わずわたしは息を詰める。頬が涙以外の理由で、熱くなる。メフィストは笑いが一段落したところで一度顔を上げて、そっと目を細めた。長い睫毛の影が、色素の薄い肌に影を落とす。そうやって一度彼に見つめられるだけで、わたしに見えていたはずの全ての選択肢が消える。そうして理由も保証もどこにもないのに、どうしてか、ここ以上に幸せになれる道などないとはっきりと思う。ああ、これは根拠のない自信に似ている。感覚で掴む可能性。理詰めじゃ解けない問題。この選択が正しいかどうか、幸せになれるかどうか、そんなことは判らない。でも進みたい。きっと、これは自分で決断しない限り辿り着けない一本の道だから。
「メフィスト」
「ん?」
わたしの呼び掛けに少しばかり首を傾げてメフィストは応える。静寂がベッドの上を漂う。窓を激しく雨が打つ。そっと、手を伸ばしてメフィストの頬を撫でて、その額に口づける。誰も彼を信用していないかもしれない。彼がわたしの側に付いてくれる保証はないかもしれない。でも、他の誰でもなくわたし自身が、選んでみたいと思っているのなら。
「好きよ」
「...賢い子だ」
美しい雨の音を、低く柔らかな声が追い払う。夜の闇が、少しだけ近くなる。わたしの選んだ未来がわたしを見つめて小さく笑った。
臆病とピリオド
052711