ダイナー風の店内で、温かみのあるランプが天井からテーブルを月のように照らしている。談笑を割って鳴った電話を取って席を立つ男の後を追うように、デザートプレートの横に追いやられたキャンドルの火がちりちりと揺れる。見慣れたバターブロンドの美しい髪は、今夜はランプの灯りを受けて、チェリープラムの花から丁寧に採られた蜂蜜のような色をしていた。品の良いジャズが沈黙を柔らかく包む。は食後の珈琲をカップの端から一口啜りながら、外へと向かうその男の背を見送る。向かいに座る男が、アップルシュトゥルーデルの端をフォークで削って口元に運びながらを見遣る。

、少し顔色が良くなったようだね」
「アルコール入ってるからじゃない?どこも具合悪くはないんだけどな」
「君の自己認識より実際の精神負荷が高いんだろう」

わたしもまだまだね、と独り言のように呟いて、は日中に行われた高高度生理訓練を思い出しながら自分の手元にあるピーカンパイをフォークで切って口に運ぶ。ゼノは相槌とも溜息ともしれない呼吸をひとつ落とすと、その頬を手の甲に乗せて頬杖をついた。

「君のその現状に甘んじない姿勢は実に美しくエレガントだが」
「ゼノ、加減についてはあなたも人のこと言えないわよ」

ゼノを先回りするように、言っておくけど、とは自身が座るソファの傍らに片手をついて首を傾げる。さらりと髪が撓んで揺れる。赤いルージュを引いた唇が美しく弧を描いて、悪戯げな瞳が笑う。

「おおどうやら 僕も誰かさんに熱心に観察されているようだ」
「可愛い後輩だからね 先輩として心配で目が離せなくて」
「随分扱いづらい先輩になったな 君は」
「言うて喜んでるでしょ その顔」
「実に面白い仮説だね さて どうだろうな」

そう言ってゼノは目を細めた。オブシディアンの双眸に美しく煌めくランプの灯りが、柔らかく星の粒のように滲む。は呼吸のついでに薄く笑うと、その視線をボックス席に面した窓の先に向けた。広く取られた窓は丁寧に手入れされ、傷や汚れの一つも見当たらない。その先に、先ほど席を立った男が車に寄り掛かって通話をしながらこちらを遠巻きに見ている姿がある。夜の豊かな闇に、一筋の紫煙が燻って風に流れていく。それを眺めるゼノとの座るボックス席は、キャンドルの火に揺られる温い静寂に包まれていた。不意に窓の向こうの男の視線が何かを捉える。窓枠の中にブルネットの美しい後ろ姿が現れて、彼に歩み寄っていく。からん、と飲みかけのラムのグラスの中で、溶けた氷が四方に光を弾く。

「絵画みたいね」

は漫然と窓枠の外を眺めながら、それかまるで映画みたいだ、と今度は胸中で呟いた。シネマのワンシーンのように美しい光景の中で、バターブロンドの髪の男は一度だけそのブルネットの美しい女性に視線を返す。最初からなんの興味もないその様子に見覚えのあるの脳裏を、彼と初めて出会った時のことがよぎっていった。一拍ほどの短い間に、男は煙草の煙を吐き出して女から視線を外す。紫煙が風に流れて二人の姿を曇らせていく。バターブロンドの髪の男は、もうその視線を女に戻すつもりはないようだった。


「なに?」

はそっと窓から手元のラムに意識を戻す。それをスプーンでひと掬いしてコーヒーに混ぜる。スプーンが陶器と触れ合う小さく軽い音が鳴る。

「もし彼に恋をした女性が現れて、」
「うん」
「彼の注意を引こうとあらゆる労力を費やし手を講じたとしたら、君はどうするかな?」
「…」

ゼノの声が完全に静寂に溶けるまで贅沢に時間を費やしたのち、は仄かに温かいコーヒーカップを口元に運んだ。芳醇なラムが香って、スパイスと樽の苦味が珈琲の芳ばしさとともに舌先を滑る。じっと向けられるゼノの視線は、彼の職業通りにまるで対象を観察する学者のようだった。カップを置いて、はテーブルの上のキャンドルの火に視線を落とす。彼に恋をした女性が現れて、彼の注意を引こうとあらゆる労力を費やし手を講じたとしたら、どうする。

「その人は きっと誰より相応しい相手になるでしょうね」

どうしてかは、わたしより、とは口に出しては言えなかった。夜の静かな海のように黒い双眸がを窺い続ける。は一つ瞬きをして、一度たりとも同じ形を作らないキャンドルの火をぼんやりと見詰めた。

「もし その仮定の話が実際に起こるなら」

きっと最初から彼のことは名前すら与えずに昇華する。そして親が娘の歳を気にして急かす頃に、そこそこ気が合って楽しい家庭を築けそうな、持続可能性の高い相手と結婚するのが、最も現実的で蓋然的だろう。

「お見合いして結婚するのが一番幸せかも」
「お見合いとは日本の文化だね」
「そう まだ結構あるの 意外とね」
「実に効率的じゃないか」

ゼノの静かな笑いに瞬きで返事をして、はピーカンパイの最後の一切れを口に運ぶ。どう考えてもプランとしてはそれが最善だろう。しかし、これは、果たして本当に、蓋然性という多数決に埋もれてしまう価値しか持たないものなんだろうか。一度も彼に向き合うことなく背を向けても、数十年後、自分の人生はこれで良かったと心の底から笑っているだろうか。ピーカンパイを咀嚼するのを数秒忘れて、は自身の思考をじっと観察する。

「なるほどな」

暫くの沈黙を、会話のピリオドと取って、ゼノは最後にそう相槌を打った。はそっと窓の外を見遣る。遠目に見える男は、いつの間にか再び一人で通話をしながら、何本目か知れない煙草を燻らせていた。一つの瞬きののち、そのトパーズの双眸と視線が交わる。僅かに首を傾げる彼の、夜の闇にも溶けない金の髪が美しく揺れる。その仮定の話が実際に起こるなら、最初から彼のことは名前すら与えずに昇華する。店内の静寂を包むジャズが曲の終わりを迎えて途絶える。キャンドルの炎がテーブルの上で踊って影を落とす。グランドピアノがそっと鳴って、その豊かな音色で静寂を編んでいく。店で食事をする前、何も言わずに当たり前のように軍服から再び私服に着替えた男を思い出す。いつかそこそこ気が合って楽しい家庭を築けそうな、持続可能性の高い相手と結婚することは、生存戦略としては最適だ。しかし今までならともかく、今もそんなことが、本当にできるのだろうか。はざわりと粟立つ心のうちを追いやるように薄く息をついた。ラムのグラスを掴むより早くゼノの手がの頬に触れて、当人すら気付く間もなく生まれた一粒の滴を拭ってこの世界の誰からも秘匿する。店の玄関に立つ案内係が軽く挨拶をする声が、ピアノの音色の底に溶けていく。はふと、この美しく平和な夜に、自分だけが、断崖絶壁の縁に立っているような気がした。

「おお 僕は君の状態を 少し見誤っていたようだ」
「何の話?」
「さあ 何の話だろうな」
「お前らまだ食ってんのかよ」
「スタンリー、おかえり」
「… おい ゼノ」
「おお噂をすれば何とやら」

外気の温度と匂いを連れて戻ってきたスタンリーが、ちらりとに向けた視線を流してゼノに移す。その視線が意味することを正しく理解して、ゼノは軽く両手を挙げるととぼけた顔で視線を逸らした。は目の前の幼馴染同士の様子を一瞥すると、今度こそラムのグラスに手を伸ばして、ぐいと煽る。遠くで、自分たちのテーブル担当のウェイターがこちらに気を配っている様子が見える。テーブルの上のキャンドルの火が相も変わらぬ揺らめきで瞬いている。ゼノの隣に腰を下ろしたスタンリーの双眸が、キャンドルの火を孕んで金星のように美しいのを、はどうしてだか思ったとおりに眺めることができなかった。

「じゃ そろそろ帰りますか」
「そうだね 随分と長居した 実にエレガントな夕食だったよ」
「それは何より 会計、まとめて払いたい人いる?」
「誰でもいいぜ」
「今回は僕が払おうか」
「オーケー あとで送金する」

会話を聞いていたようなタイミングでやってきたウェイターが支払い手続きを請け負う。渡したカードを持って戻ってきたウェイターにお礼を言い、三人でチップ額を決めて、ゼノが請求書にサインする。行こう、とがアウターを手に席を立って出入り口に向かうと、その手が扉に触れるより早く背後からゼノが扉を開ける。もはや無意識なんだろう、この国の不文律の浸透にはつくづく感嘆する、と思いながら、はアウターを羽織った。そうしていつものように鞄の中に手を滑らせる。

「俺が持ってんよ 鍵」
「あ」

後ろを歩いていたスタンリーが、わざとの背に軽くぶつかる。そうだった、と言って背後のスタンリーを見上げるために顔を上げると、僅かに細められた、いつものトパーズの双眸と真正面から出会った。

「ではふたりとも気を付けて」
「あんたもな」
「おやすみ、ゼノ」
「おやすみ」







planemo

03.08.26