心地よいリズムで最近のトップチャートの音楽が流れている。他人の車とは思えないほど見事な運転技術での愛車を扱う運転席のスタンリーを、は僅かに眠気が漂う意識の中でちらりと盗み見る。車だけではない。戦闘機も銃の扱いも、彼の腕前は異次元だった。しかし、いくら幼馴染が科学や工学に対しずば抜けたセンスを持っていたとしても、彼が彼の幼馴染と同じく、別な領域での神童だったとしても、それだけで身につくものは何一つ無いはずだ。貪欲に知識を漁り、実際に経験し学び、間違うことを恐れずに進むことでしか得られないものがある。それは、にも覚えのあることだった。どれだけの時間、どれだけの努力を積んだのかは測りようがないが、その事実があることだけは、今の彼を見る限り誰の目にも明らかだろう。弛まぬ努力を積めるというのは、一種の才能だ。ふと、夕食の席で、ゼノが問いかけた言葉が蘇る。

「道、どっちでもいいな」
「うん」

互いに視線はそのまま、声だけの短い会話がメロウな音楽に交じる。は窓の向こうを眺めたままひとつ瞬きをした。広い道路脇の街灯が定速で流れていく。ウィンカーの上がる音が数回鳴って、ひどく滑らかに車が左折する。スタンリーは普段、どこへでも行き、生きて帰ってこられる、陸の王者と名高い四輪駆動車に乗っている。それでも、の愛車である、路面を掴むような低い重心のスポーツセダンもまるで運転のしやすさや癖は変わらないと言わんばかりに扱う。は緩慢に瞬きをするなかで、助手席の居心地の良さにそっと窓ガラスに頭を預けた。眠いなら寝てな、と言うスタンリーに曖昧に相槌を打つ。聞き覚えのある音楽が流れて、そっと瞼を伏せると、鞄の中で僅かな振動が生まれる。夜の闇に浸された車内でスマートフォンを無意識に取り出したことを、はその通知画面を見て後悔した。示されていたのは、見覚えのあるかつての交際相手の名前だった。通知画面だけを確認して、無造作にスマートフォンを仕舞う。夕飯の席での感覚が蘇る。ざわりと心の奥がざらついて、どうしようもなくこの場から逃げ出したい、とは思った。



運転席のスタンリーが、助手席以外に届けるつもりのない程度の声での名前を呼ぶ。それは僅かに掠れて、角のない柔らかい音だった。晩夏の格納庫で、聴いた心臓の音を思い出す。スタンリーに触れて、彼を見送った日のことをずっと忘れられないでいる。

「なに」
「煙草 買いに一箇所寄んぜ」
「いいけど 切らしたの」
「まあ」
「…ほんと たった一つの最悪のバグよね」
「うるせえな」
「どうやったらそれであの訓練結果になるのか、本当に深宇宙くらい不思議」

ちらりと助手席から向けられる、心配しているのか物言いたげなのかはっきりしない視線に静かに喉で笑って、スタンリーはハンドルを切った。車内に静寂を呼び込まないように、音楽が絶え間なく流れている。は緩やかに止まった車の先の赤信号を見遣る。スタンリーのことを自分の望む場所に上手く仕舞えない感覚が、小さく、しかし異質なもののように際立って思考の隅にずっとある。耳の奥で、拍動が嫌な音を生んでいる。運転席のスタンリーは、ドアの窓枠に肘をついて静かにフロントガラスの向こうを見ていた。僅かに鞄の中で、スマートフォンが振動する。は夕食のテーブルで、何が最善のプランかを考えたことを思い出す。そうして、今まではそれで良かったはずだった、と思った。過去の交際相手のことを、は間違いなく好いていた。一緒にいたら楽しくて安心した。特別で、愛している、と思った。しかし、今自分の隣にいる男への感情は、それとは明らかに違うものだった。車が丁寧に右折して、広く閑散とした駐車場に滑り込んで止まる。

「何か買うもんは」
「ない」
「じゃあ車ん中で待ってな ついでに一服してくんよ」

シートベルトを外して、スタンリーは何かあったら連絡しなと言うと車を降りていく。少し間が空いてドアが施錠される音に、は小さく笑った。遠ざかるスタンリーの背中を見つめたのち、自分の思考に意識を戻す。誰かを失う可能性に耐え難い恐怖を味わうことも、他の何を犠牲にしても守りたいとこれほど強く思うことも、今までに一度だってなかった。するりと鞄が席から落ちて、スマートフォンが滑り出る。かつての恋人との時間のいくつかを復元するように脳裏で並べて、ああ、そうか、とは助手席で誰にともなく呟いた。恋人として誰かを愛する時、自分はいつも、ただの一人の人間として向き合ってきた。仕事も、科学者としての自分も、恋愛には一切関係なかった。そしてそれが自分にとっての理想だった。理想だったのに。そう胸中で繰り返して、足元に落ちた鞄に手を伸ばす。薄く煙草の匂いが鼻腔を掠めてすぐに消える。誰かの命を支えたい、生還する意志を守りたい、という自分の科学の信念は、スタンリーに出会って、知らぬ間にひどく個人的な欲になっていた。睫毛の間を滑る雫が、助手席のレザーシートに弾けて落ちる。スピーカーから流れる音楽が途切れて、駐車場に面した道路を、数台の車が通り過ぎていく。

「う、」

誰もいない車内で、こぼれる嗚咽を堪える。ぱたり、ぱたりとひどく軽やかな音を立てて雫が落ちていく。触れたら最後、巻き込まれて自分まで燃えるような不可逆だと予感していながら、手を伸ばすことを、触れたいと願うことをやめられないこの感情が自分に何を齎すのか、その全容が分からないことが怖かった。今までは、一部で済んでいた。最初から最後までどうすればいいかも分かっていた。しかし、いつかこの感情を手放さなくてはならない時がきたら、自分は一体、何をどれだけ、失うんだろうか。失った自分は、いつかまた今と変わらぬ自分自身に戻れるんだろうか。車内に流れる音楽の合間に、涙の落ちる音が何度も響く。不意に鳴るスマートフォンに、半ば反射的に手を伸ばしてタップする。久々に聞く、かつて最も愛おしいと思っていた男の声がスピーカー越しに生まれる。

「もしもし?」
「うん」
「メッセージみた?今度の4月のさ…え、泣いてんの?大丈夫?」
「ごめん やっぱいま話聞けないかもしれない」
「どした」
「好きな人ができた」
「おお、え?なんでじゃあ泣いてる?」
「こわくて」
「…」

は助手席で膝を抱えて顔をうずめた。こぼれそうになる嗚咽を何度も噛み殺す。電話の向こうで、懐かしく聞き慣れた声がからかうように小さく笑う。

「俺んときもそうやって好きすぎて泣いてくれたこと ある?」

それはひどく優しい音だった。はスマートフォンに落ちる涙を、瞬きもできずに眺める。一人の人間としての日常の中で向き合えなかったから。仕事に持ち込んでしまったから。そのせいで、今までのように処理できないと思っていた。ああ。でもそれ以上に、わたしは。

「本当にごめん またかけ直してもいい?」
「いってらっしゃい」
「ありがとう」

は誰もいない車内でその声に笑んで涙を拭った。呼吸を整えて、ドアロックを解錠して外に出ると、冬の冷たい風が熱を持った頬を撫でて冷やしていく。スマートフォンを数度タップして耳に当てながら、店の周囲に視線を流す。リングバックトーンが大して鳴りもせず途絶える。

「居んよ」
「戻ってきて」

微かに呼吸に混ざって笑う音がして、電話はすぐに切れた。は自分の車のボンネットの端を一度そっと撫でて腰掛ける。エンジンの熱と真冬の肌寒さが、心地よさと少しの安堵を連れてくる。フライトジャケットのポケットに手を入れたまま、自身の目の前で足を止めたスタンリーをは少しの間眺めた。この男への感情によって、逃げる場所も、自分を守るための命綱も何も無いまま、断崖絶壁の縁に立って、動けない、と思っていた。それなのに、同時に、この男を前にするとひどく安心する自分がいる。

「寒くない?車内のほうがいい?」
「あんたがそうしたいならそうしな」
「…じゃあこのまま少し、話聞いて スタンリー」
「…」

は一度視線を足元に落として、もう一度スタンリーを見上げた。冬の寒さの中でも目の前の男は普段と何一つ変わらないようだった。スタンリーはただ静かにその美しい睫毛を揺らして瞬きをする。駐車場の薄暗がりで、その双眸はいつか見た金星のような色をしていた。音もなくそっと吐いた彼の呼吸が白く空気に溶けていく。

「…仕事、プライド持って やってるつもりだった」
「…」
「でも 公平に見れなくなった たった一人を何が何でも生かしたいって 守るために何だってしたいって」

思ってしまう。そう言ってはその視線を手にしたスマートフォンに落とす。私情を挟むことは、自分自身のプロフェッショナリズムに反する。プロとしては恥でしかない。僅かに眉根を寄せて、は言葉を止める。チカチカと、24時間営業のドラッグストアの看板の明かりが跳ねる。目の前の道路を結構な速度で通り過ぎる車から、若者たちの笑い声が溢れて流されていく。

「あんたの仕事は質が落ちんのか 上がんのか そいつ生かそうと思ったら」
「…上げたい」
「じゃあ 一番いいじゃんよ」

冬の風が、枯れて残った幾許かの木の葉を鳴らして通り抜ける。駐車場から道路に出る車のウィンカーが夜の闇を鮮やかなアンバーに染める。過去の交際相手のことを、もう一度思い出す。大好きだった。一緒にいたら楽しくて安心した。特別で、愛している、と思った。しかしそれでも、すべてを賭けて向き合ったことは一度もない。その観点で目の前の男は過去の相手と共通する再現性がひとつもなく、自分の中にある規定のルールでは測ることができなかった。境界を押し広げるなら、きっとできただろう。でも、境界の外に出るようなこの心地は、足元が崩されるに等しい恐怖だった。再びわずかに滲んだ恐怖心が、あっという間に雪崩込む。自分のすべてを賭けて負けた時、自分には一体、何が残るんだろう。

「スタンリー」

が呼ぶのとほぼ同時に、スタンリーの手がの頬に触れる。その指先が僅かの体温を与えながら目尻をなぞって、雫を掬う。スタンリーはふと、かつてゼノが彼女を形容する際に言っていた言葉を静かに思い出した。

「あなたと会った時 わたしが自分の仕事について言ったこと 覚えてる」
「ああ 覚えてんぜ」
「宇宙食も糧食も 本来はね あらゆる条件を高度に計算して、アルミパウチに封じ込めた生命維持の”道具”よ」
「…へえ」
「でもそれだけじゃない わたしはそれを通して生き残る意志を少しでも強く与えたい そして生還させたい」

理想としてはね、とはスタンリーを見上げて、ひとつ息を吐いた。一番いい、と言ったスタンリーの声が、ずっと耳の奥に柔らかく残っている。ぎゅう、とは手にしたスマートフォンを握りしめる。

「…わたしが研究者としてたった一人の命を特別大切に扱ったら その人はきっと そういうわたしの仕事の意義や理想を背負うことになる」
「…」
「その人が死んだらわたしはこの仕事の意味も目的も 最も愛しいその人も 生きる理由も きっとすべて失うから」

睫毛の先に残る小さな涙の粒が、夜を走る車のヘッドライトに煌めいて揺れる。

「重たいと思う」

冷たい風が薄くの髪を撫でる。目の前で、微動だにせずただじっと自身を見つめる男の存在が風を遮っている。ボンネットから伝わるエンジンの熱が体の芯をちりちりと焼く。

「それを 持つことができるかどうか知りたい スタンリー」

僅かに掠れた声は、しかし冷たい風にも周囲の音にもかき消されることなく夜のしじまに溶けていく。


「できるね」


気がつくより早く、ぱたりと涙が落ちる。スタンリーはそれ以上の言葉を紡がなかった。過去の恋人たちには一度だって渡さなかったものを、渡せなかったものを、渡すつもりもなかったものを、目の前の男は問いの一つもなく当然のように手にしてしまう。は一つ深く息をつく。冷たい夜風が吹き抜けていく。夜のしじまを流れるその風に混じって、微かな煙草の匂いがした。







GRAVITY

03.10.26