「スタンリー」

人もまばらな真夜中の温い店内で、何かを思いついたの声にスタンリーはそのトパーズの双眸を向けた。厨房で煮込まれている豚肉と玉蜀黍のポソレの匂いが漂う。黄土色の塗装の壁と黄色や青に塗られた柱が、気取らない大衆向けのテクスメクス料理店らしさを醸し出している。壁付けの丸いブラケットライトが暖色の明かりで空間を包み込み、その店内はまるで夜であることを忘れさせるほど鮮やかだった。

「5年間ブリトー食べ続けられる?」

店員が運んできたリモナダテキーラを受け取り、は向かいに座るスタンリーがカルネ・ギサダのブリトーを齧るのを眺める。問いを受けたスタンリーの手が誤差のように一瞬だけ止まる。

「それしかねえならな」

確かに彼なら耐えうるかもしれない、と思いながら、その一瞬の停止をはひとつの瞬きと共に記憶にしまい込んだ。火星ミッションでは安全性、栄養価、嗜好性を最大5年間維持できる宇宙食が必要になる。もちろん5年間全く同じ食品を摂取し続けることは不可能に近い。だから、厳密には今の問いに意味はない。しかし、火星へのミッション期間は過去最長で、最後の日まで必要な栄養を供給できるかが大きな研究課題であることは自明だった。そして、味はどうでもいい、と食の機能以外にひたすら無頓着を示してきたスタンリーでさえ逡巡したことが、その課題の難しさを裏付けていた。

「……まあ、スタン、判を押したみたいにいつもカルネ・ギサダだもんね 5年食べれそう」
「チキンの時もあんぜ」
「そうなんだ?100回に1回くらいじゃないのそれ」
「かもな ま 腹に入りゃ同じじゃん」

天井の古いスピーカーから流れる、真冬の真夜中には不自然なほど陽気なテハーノのアコーディオンとスペイン語が、外の寒さや静寂をかえって際立たせる。二杯目となるテキーラカクテルを口にして、は自身の手元にあるケサディーヤの一切れを摘んだ。切れ目から溶けたチーズが細く伸びる。

「夜中のデートってさ」

何の気なしにそう言って、はスタンリーの視線を受けてふと口を噤んだ。そうしてそのまま、チーズを落とさないよう注意深くケサディーヤをひと齧りする。まばらに座る客の話し声が、テハーノと店の奥から聞こえるスポーツニュースの再放送の音に混じる。赤いシャツを着た店員が足早に傍の通路を横切ると同時に、香ばしいファヒータの牛肉と焦げた小麦粉の香りが通り過ぎていった。ケサディーヤを咀嚼するあいだ、いつも通り手元に集中して効率的な食事を進めるスタンリーを眺める。僅かに伏せられた瞼の先で、細く長い金の睫毛がブラケットライトの光を弾いている。太陽光を弾いて輝く月のようだ、と思ったところで、スタンリーの瞳が再びを捉えた。

「んで 続きは」
「……夜中のデートっていいよね って言おうとしたんだけど でも なんか 違うかも」
「……。」

いや、違うくもないんだけど、とは言葉を濁す。昔から、夜中のデートが好きなことは事実だった。しかし、先ほどそれを口にした理由は、”夜中のデート”が好きだからではなかった。目の前でブリトーを咀嚼する男の、普段と違って整髪されず無造作に掻き上げられたバターブロンドの髪が緩く揺れる。テーブルに柔らかな沈黙が満ちる。さっきから耳の奥で強く鳴る心拍が、店内に流れるテハーノとまるで足並みの揃わないリズムを刻んでいる。

「へえ」

スタンリーが何かを探るように双眸を細めたのち、揶揄いを乗せて口角を上げる。店内の温かな光を受けた瞳が色を深める。は自身の心拍の忙しなさから意識を逸らそうと、手元のリモナダテキーラを掴むとおもむろに喉に流し込んだ。

「スタン 心拍読むのやめて」
「癖なんでね」
「アルコールのせいじゃんこれは」
「何の言い訳してんだ」

そう言って鼻先で嘲笑うスタンリーが手にしたブリトーの最後のひと口を放り込む。店の正面ドアが開いて、真夜中の冷えた空気がするりと足元を撫でる。スタンリーが新たにやってきた客を一瞥する合間、は手元に視線を落とした。ほとんど無意識のうちに、あとどれくらい、という言葉が浮かんで消えていく。それに数秒遅れて気が付き、諦念まじりの薄い溜息をつくと、不意にキッチンでベルが鳴った。他の客が注文したフローズンマルガリータのライムの香りが空気の中を通り抜ける。そういえば、とはその華やかな香りに釣られて顔を上げた。この店のメニューに数種類のマルガリータがあったことを思い出す。

「やめときな お前、車にも積んでんじゃんよ 着いたら飲むっつってさ」

客を観察していたはずのスタンリーの声が、間髪入れずにの意識をテーブルに繋ぎ止める。滑らかで角の丸い声が、艶のある余韻を残してボックス席を満たしていく。

「まだ何も言ってないんですけど せめて会話の形にしない??」
「見りゃ読めんだよ 早く食わねえとチーズ固まるぜ それ」
「…… 一切れ手伝って」
「寄越しな」

微かに眉を和らげ、呼吸に滲ませた笑みだけで呆れた様子を見せるスタンリーが、テーブルの真ん中に寄せられた皿からケサディーヤを掴む。チーズを落とす危うさもなく綺麗にそれを口に運ぶ男にが感嘆の声を漏らすと、とっとと食え、と言わんばかりの視線が刺さる。そうして時計が1時を回った頃、無事に夜食を終えた二人は陽気なスペイン語の歌が途切れることなく流れるその店を後にした。

「窓開けんぜ」
「んー」

駐車場に停めた四輪駆動車のエンジンがかかると、逞しく心地よい重低音が柔らかく夜を包む。スタンリーはエアコンを最大にしてシートヒーターを入れ、ダッシュボードに無造作に置いた煙草の箱から一本を取り出した。ヒーターが車内を温めるのを待つ少しの間、は助手席側の窓に頭を預けながら、スタンリーがライターで先端に火をつけるのを眺める。ふと去年、スタンリーに会った母親がこの様子を、色気がすごい、と手放しで賞賛していたことが脳裏をよぎって、は音もなく小さな笑いを溢した。コックピットのメーター表示が暗闇を淡く照らす。深く吸い込んだ煙を外へ向けて吐き出し、スタンリーは煙草を咥えなおしてちらりとに視線を向けた。の鼻先を煙草の匂いが掠める。暗闇に潜むトパーズの双眸が、計器の明かりを受けてやけに煌々と星のように瞬いている。

「綺麗」
「酔ってんね」

スタンリーが掠れた含み笑いを落とす。そうして、まだそれほど酔ってない、と異議を申し立てる女の頬に手を伸ばして触れた。開けた窓から侵入する冷えた風に仄かに石油の香りが混じる。外気で僅かに冷えた肌を指先でなぞると、肌の内側から柔くアルコールの熱が伝う。

「スタンリー」

温い車内の静寂を割って呼ばれる名前に、スタンリーはベテルギウスの色に似た双眸を細めた。薄く吐いた煙が冷えた外気に攫われていく。煙草を左手に預け、明滅する先端を開けた窓の外に軽く追いやる。の意識を独占するように視線を捉えたまま、頬に添えていた手を後頭部に滑らせると、スタンリーはそっとの頭を自身の元へと引き寄せて一度だけ丁寧に、深く呼吸を奪った。嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いが鼻先をくすぐる。一台の大型ピックアップトラックがV8エンジンの低く太い排気音を鳴らして通り抜ける。その余韻が消えるまでの間、車内には微かに混じり合うふたつの呼吸だけが漂っていた。唇を離して絡まる視線を解き、再び煙草を咥えながら、スタンリーは助手席でどこか満足気に笑うに小さく口端を上げる。ブレーキペダルを踏みシフトレバーを入れると、しなやかな体躯の四輪駆動車は操舵に素直な動きで伽藍堂とした駐車場を後にした。








penumbra
07.03.26