真冬のテキサスシティ・ダイクは冷たく湿った風が運ぶ潮の匂いと波の音で満ちていた。湾に突き出した、左右をダイク・ビーチの砂浜と防波堤に囲まれた一本道だけが闇の中へまっすぐ伸びている。間隔の広い街灯は一つ通過するたびに車内へ橙色の光を僅かに運ぶ程度で弱々しく、ヘッドライトが届く範囲の先はまるで宇宙空間のような闇だった。その中を躊躇いもなく進む四輪駆動車の車内は暖かく、コックピットから漏れる計器の柔い光とラジオが運ぶトップチャートの歌が夜の静寂を遠ざけている。北欧のアーティストを彷彿とさせるシンプルな鍵盤楽器がイントロを紡ぐと、アパートの部屋を片付けようと思うの、という歌い出しを半ば無意識に口遊むの声がラジオに重なる。そうして、そういえばこれは恋を終わらせて立ち直る女の心情を歌う歌詞だった、と思い至ってはワンフレーズ分だけ沈黙した。しかし次の瞬間には、まあいいか、と眠気混じりに手早く思考を放棄する。もう数フレーズをなぞると、不意に運転席から喉で笑う音がした。
「なに」
「なんで一瞬やめた?」
絶対に分かっていて訊いている、とは胡乱な視線を運転席のスタンリーへと向ける。永遠に続くようなダイク・ロードを愛車に走らせながら、心許ない街灯の光を弾いて金星の如く煌めく双眸はフロントガラスの先を見据えたまま動かない。
「…スタンリーくんが傷付くかと思って」
「ハイスクールに上がったばっかのそこらのガキなら泣いてたかもしんねえがな 残念ながら んな繊細じゃないんでね」
「高校時代なら泣いてた?」
「ねえよ」
スタンリーは不遜な笑いを含んだ声音でひどく短くそう言った。あまりに簡潔な返しに自然と溢れたの軽やかな笑いが、車内にあるすべての音を柔く包む。車が道路脇の砂利道に乗り入れると、オフロードを得意とするスタンリーの愛車はオンロード時と少しも変わらぬ安定感で減速して静かに停まった。最も近い街灯は点いておらず、エンジンを切ってヘッドライトが消えると辺りは月明かりだけを残して暗闇に包まれる。ラジオから流れる歌が終わると、その余韻を許さないラジオのMCの元気な声が続く。はひとつ瞬きをして、僅かに口角を上げた。何の意味も何の気もないこの空白が、何より心地よいと思うようになったのはいつからだろうか。ちらりとスタンリーを見ると、それに応じるようにトパーズの双眸が向けられる。
「とりあえず降りよう」
「さみいぜ」
「飲むから平気」
「そういう問題かよ」
後部座席に無造作に手を伸ばしたスタンリーが二人分のダウンジャケットを掴んで片方をに渡す。受けとったジャケットを着込み助手席を降りてすぐに、途切れることのない波の音が聴覚を支配して、天頂付近に浮かぶ満月が海に落とす細い光の道が目に入る。宇宙に行ったことはないが、宇宙を想像する時と同じく外界の全てから断絶された感覚が満ちて、は少しの間、その場に留まってただ海を眺めた。砂利を踏んで隣にやってくるスタンリーがその体格差をもって吹き付ける湿った風のほとんどを受ける。肌に触れる冷たさが和らぐ。
「何飲もうかな」
「念押ししとくが 公共の場で酩酊すっと犯罪だかんな」
「分かってるししません」
勝手知ったる顔をして見上げてくるの視線を拾い、スタンリーは鼻で微かに笑って四輪駆動車の後ろに向かう。バックドアを開けると横からがするりと手を伸ばして酒瓶のうちのひとつとプラスチックのカップを掴んだ。そのままその手がブランケットに伸びて一瞬止まるのと同時に、スタンリーがそれを手にする。他には、と低く吐息混じりの声が漣に重なってなお耳の奥に残るのを感じながら、はスタンリーの分のミネラルウォーターのボトルを腕に抱えて、ない、と言った。
「もっと混んでるかと思ったんだけど」
「これからだろ」
車を停めた砂利道とは反対側に続く砂浜に入ると波の音が一層強まる。夜の浜辺にぽつりと佇むコンクリート製の東屋のピクニックベンチに腰掛けて、がテーブルの上に水のボトルとシェリー酒の瓶を置く。空いたその手にブランケットを渡して、スタンリーは風下側の側壁に寄りかかるや否や煙草を取り出して火をつけた。はテーブルに頬杖をつき、その小さく鮮やかな火から揺蕩う紫煙をぼんやりと目で追いかける。
「ほんと 最悪のバグよね」
「もうやめたのかと思ったぜ それ」
「……」
乾いた嘲笑いを煙に溶かして、スタンリーは咥えていた煙草を片手に預けると大きく息を吐いた。は目の前の男の言葉に咄嗟にどう返すべきか分からず視線を海へ泳がせる。何が何でも生かしたいと思うたった一つの命にとって、これが毒なのか、薬なのか、という問いが、火傷のように意識の隅に居座り続ける凍結の痛みを連れてくる。波が寄せて返すのを数度聞いたのち、ひとつ瞬きをして、はテーブルの上の瓶の封を切って徐にプラスチックカップに注いだ。
「お前のそれも大概だがな」
「…ゼノにも言われた気がする」
出張でカリフォルニアにいる後輩のことを脳裏に思い浮かべながらカップを口に運んで、月明かりに煌めいてなおそのほとんどを漆黒に浸すガルベストン湾を眺める。湿って冷たい風が潮と海藻の香りを含んで肌を撫でる。はカップを手にしたまま席を立ち、いつもよりも幾分か大きな月を見るために浜辺に降りた。今月二度目の満月は、地球の近地点付近にあり、通常よりも約15%明るい。今日は星見には向かない、と何も遮るものがない全天のような空を見遣って、は不意に乾いて自虐の混じる笑いを落とした。星見に向く日にまた来たい、と思った数秒前の自分に、誰と、と胸中でだけ突き返す。背後でベンチに腰掛ける音がして、ライターの着火音が引き波の合間を埋める。は僅かに唇を噛んで、次に言葉を紡ぐまでの数拍の間ただ呼吸を繰り返した。
「今日の皆既月食ね 近地点で二度目の満月の条件下では 次に見れるのは2037年なの」
「へえ」
「逆に前回、その月二度目の満月が近地点にあって、そこに皆既月食が重なる現象がアメリカで観測できたのは1844年5月31日」
「…」
「つまり今日は約170年ぶりの夜」
でも、と小さく続けるの声が波に浚われる。遠くで鳴る貨物船の汽笛が湿気った冷たい風にぼやけて滲む。
「テキサスでは月が食から抜けるところまでは見られない」
世紀の一大イベントなのに、と言いかけて、は再び口を噤んだ。過去を見れば約170年ぶりだが、先を見れば19年後だ。人一人の人生に収まるスパンであれば、世紀の一大イベントと呼ぶのは些か大仰だろう。それでも自分には、前回がどれほど昔だろうが、次回がどれほど近かろうが、今日、このイベントを最後まで見届けることに特別な意味があったのかもしれない、と思うと同時に眩しいほどの満月が霞んで涙が落ちた。
「わたし 何にも最後まで 見届けられない」
波の音が積み重なって、涙に揺れる声を夜の底へと沈めていく。慣れてほとんど感じなくなった潮の香りに時折、煙草の匂いが混じる。共同開発の案件が凍結したのは予算都合だということは分かっている。しかし分かっていても、目の前にある結果が突きつけてくるものは何も変わらない。案件が生きていれば届くはずだった自分の仕事は結局世界に届かない。かたや宇宙飛行士も、航空宇宙工学、とりわけロケット開発における世界最高峰のエキスパートであるNASAの研究員も、特殊部隊の隊長も、世界を変える人たちだった。見知った面々が未来へ進む側にいるというのに、独り世界に振り回される側にいる自分の無力さに嫌気が差して仕様がない。
「次があんだろ」
冷たい絹の滑らかさを持つ声が、大した声量でないにもかかわらず漣の音を負かして真夜中の砂浜に響く。一方で、分かってる、とだけ辛うじて返すの声は、まるで波に侵食されたように覚束なかった。帰還してからこの話題が会話に上ったのはこれが初めてだと思いながら、スタンリーは空を見上げたまま微動だにしない女の背中をじっと眺める。軍人にとっては、案件の中止や方針転換など日常茶飯事だった。葬式があろうが結婚式があろうが命令が下れば任務へ行き、任務中だろうが何だろうが計画が変われば従う。それだけのことでしかない。18の頃からそれが当たり前の世界で生きてきた。空を見上げていたがその視線を足元に落とす。
「でも 次があるからって今回の凍結はなかったことにならない」
「……」
「境界を押し広げようとしても 結局何の形も成さないんなら 誰の何の役にも立たないじゃん」
東屋のすぐ外にいるのに波の音に負けるほど、の声は涙に滲んで細い。満月の光を受けて透き通るシェリーの双眸を細めると、スタンリーは煙草を咥えたまま肺に溜めた紫煙を吐き出してテーブルに頬杖をついた。10代の頃、目の前の女に初めて出会って聞いた言葉を思い出す。規定のルールで想像されるものだけを出せば良いなら、誰にだってできる。その想像の境界を今より少しでも外に押し広げることができて初めて、科学者として、この領域の専門家として、やっと一つ仕事をしたことになるのではないか。白波が幾度も寄せては返し、飛沫が光を弾いて火花のように散る。しばらく視線を落としていたが、数拍を使い息を整え、手にしたカップの残りを煽って戻ってくる。月明かりに細く煌めく睫毛の先から雫が落ちるのを眺め、スタンリーは咥えていた煙草を携帯灰皿に押し込んで、テーブルの上のペットボトルに手を伸ばした。
「誰の役にも立たないならどうすんだ やめんのか」
途切れない波の音に混じって時折霞む貨物船の汽笛が辛うじて浜辺に辿り着く。プラスチックのカップをテーブルに置いたまま動きを止め、突きつけられた問いも抱えた無力感も逃しきれずに涙として落とすは、小さな嗚咽を漏らすだけで何も言わない。スタンリーは水を口に含んでペットボトルのキャップを閉めながら、その様子を横目で観察する。もはや選択肢がないのに抗おうとするのは自身の領土を守る最後の砦でありたいからに他ならない。誰の役にも立たないことに耐えられないのは、役に立つと信じていることの逆説だろう。最初から答えは出ているはずだった。真冬の冷たい風が小さく唸りをあげてコンクリートの側壁を回り込む。手にしていたペットボトルを元の位置に戻し、スタンリーは風向きに変化がないことを読むと、箱から取り出した煙草を咥えて火をつけた。眩い月明かりに照らされた波が砂浜を撫でては空との境目の見えない黒い海に戻っていく。
「…… やめれない」
それは諦念にも似た、あまりにも孤独で、細くて強い音だった。
「ならその時その状況で出来るベストを見極めて実行すんしかねえな お前も俺も 下りてきた上の命令がクソでもよ」
シェリー酒の瓶を手にし、プラスチックカップに注ぐの睫毛のあわいから、コンクリートのテーブルに一粒の涙が落ちる。やけに大きな音を立てて散るそれを、しかし、もスタンリーも拾わなかった。は瓶を戻して、海を眺めたまま紫煙を燻らせるスタンリーの横に腰掛ける。そうして手にしたカップからアルコールを喉に流し込んだのち、そっと隣の男の肩に頭を預けた。風が吹くたび鼻先を海藻や泥の匂いが掠める。遠くに霞む製油所の赤い航空障害灯が星の代わりに瞬いている。
「スタン 部下にもそう言ってんの」
「言わねえよ んな初歩的なこと言われるような奴は俺ん部隊にいねえかんな」
「……」
「なんで落ち込む お前は俺の部下じゃねえだろ」
煙草を咥えたまま嘲笑うと、ポケットに突っ込んでいた手をするりと伸ばしてスタンリーはの冷えた手を掴んだ。風から覆うように重ねて、そっと小さく指の腹で撫でる。
「」
「…なに」
「だいぶやられてんじゃん」
「…知ってたでしょ ちょっとくらい甘やかしてくれてもいいのに」
「普段年上ぶってんくせに急に駄々こねるガキか」
海を眺めたまま、隣の女からの軽口に今度は口角だけで笑って、空いた手で煙草を掴んで風下に煙を吐き出す。満月に照らされる雲のように白煙が棚引いていく。スタンリーは満月を見遣るともう一度だけ煙草を深く吸い、それを携帯灰皿に放り込んだ。徐に立ち上がるスタンリーのバターブロンドの髪が柔く揺れて満月の光を通す。
「そろそろ仮眠すんぜ 来な」
横着した生返事をしかけて、聞こえた最後の言葉にはぱちりと目を瞠った。視線を上げると、星を砕いたように美しいトパーズの双眸と出会う。ひとつふたつと波が寄せては返す間、スタンリーはただ黙ってを見下ろしていた。はみっつめの波が引くまで目の前の男を眺めていたが、しかし次の波が訪れる前にその手を伸ばす。鼻先で小さく笑ったスタンリーが躊躇いもなくその手を受けてを抱き上げる。そうして、自分のものは自分で持ちな、と抱きかかえたの手に酒瓶とカップとブランケットを持たせると、スタンリーは片腕でを抱え直し、片手に水のペットボトルを掴んで、駐車した四輪駆動車へと戻っていった。
umbra
07.08.26