不意に通り過ぎるピックアップトラックのエンジン音で浮上した意識が、鼻先を掠める微かな煙草の匂いを拾う。次いで、自身のものにほとんど馴染んだ体温と、耳元で鳴る規則正しい拍動が意識に触れた。コンフォーターの上から抱き留める腕が僅かに強まって、一度だけ指先で肌を撫でられる。大して目も開けずに、強い眠気に引き摺られるままは自身を抱き寄せている男の胸に顔をうずめた。柔く、ボディソープのシダーウッドが香る。頭上から薄く笑う音が降って、四輪駆動車内の柔らかな静寂に溶けた。ちらりと腕時計を見、スタンリーは再びうたた寝し始めた腕の中のを抱き直して名前を呼ぶ。セカンドシートもサードシートも格納し生まれた広いラゲージスペースは、180cmの長身でさえ満足に寝られる程度の空間になっていた。
「どうすんよ まだ寝るか 起きて月見るか」
「……なんじ いま」
「5時過ぎ」
「…おきる」
覚束ない意識で返事をしたはしかし、自力で起きるより先に、起きると決めた途端何の躊躇もなくコンフォーターから抜け出す恋人の腕の中から放り出される。ダイク・ロードを走る車のヘッドライトとエンジン音が通り過ぎるまでのあいだ、はただラゲージスペースの床に寝転んで、目の前の男の自己統制力の高さにげんなりした視線を投げた。暗闇の中でコンフォーターとブランケットを手際よく片していくトパーズの双眸とかち合う。その瞳はいつも通り何が起きるかをすべて予測しているようだった。嫌な予感しかしない。
「開けんぜ ドア」
「まっっって」
早くしな、と喉で嘲笑う声に物言いたげな視線を返しながら、はその身を起こしてアウターを羽織る。一つ大きく欠伸をすると同時にバックドアが開き、真冬の湿って冷たい潮風が半覚醒の意識を強制的に叩き起こした。周囲は相変わらず夜の帳が降りたまま、波と風の音だけが揺蕩っている。先に降りたスタンリーが伸ばした手を借りて、も四輪駆動車から降りる。一番近い簡易トイレで手洗いを済ませ、銀河のように点々と闇を照らす街灯の下をたった二人で歩く。スタンリーが咥えた煙草に火をつけると、白波に似た煙が音もなく棚引いていく。
「スタン ずっと起きてた?」
「いや 寝てた お前が起きるまでな」
「じゃあ偶然目が覚めてよかった」
「まあ お前が起きなくても目覚ましで起きる予定だったがな 偶然起きた奴のほうが数分早かっただけだ」
周囲に最低限の警戒網を敷いたまま、僅かに口角を上げて隣を歩くスタンリーの歩調は速くもなく遅くもない。いつかのガラを思い出し、はひとつの瞬きの合間だけ小さく笑った。こっそりとスタンリーの指先に手を伸ばす。しかし触れるか否かのところで、スタンリーがの手を捉えて先に握った。街灯と街灯の合間のボイドのような暗闇と真冬の夜風が、繋いだ手の温かさを際立たせる。彼がここに残る理由が減ったいま、あとどれくらいこうして一緒に暮らす日々があるだろうか。ついに目を逸らし続けた問いが冷たく心臓を刺す。さらに深いところで召集のたびに味わう恐怖が滲みかけて、無意識に繋いだ手を強く握るの手を、スタンリーの指先がそっと撫でる。
「…ねえ、スタンリー」
「……。」
呼びかけられた声に、スタンリーがそのトパーズの双眸を向ける。部分食の始まった満月がどこまでも続く一本道を照らす。波音に揺られる静寂に、二人分の足音が響く。いつの間にか浜辺や砂利道には、数台の車がまばらに停まっていた。
「…お腹空いてない?」
「ああ」
見慣れた四輪駆動車に戻ってくると、はスタンリーが車を解錠するのを待ってバックドアを開ける。ラゲージスペースに積んである荷物からバッグと水のボトルを取り出して、傍らに立つスタンリーにそれを手渡す。何も言わずに受け取るスタンリーの、金の睫毛に縁取られたシェリーの瞳がの視線を捉える。徐々に暗くなっていく月明かりを通して深く透き通るそれは、圧こそないものの少しも揺らがず逸らされない。はその美しい瞳から一度視線を外すと、溜息に薄い笑みを滲ませて、わかってる、と胸中でのみ呟いた。
「上で食べたい」
「じゃあバンパーに乗りな」
スタンリーはバックドアを閉めて咥えていた煙草を携帯灰皿に押し込むと、がリアバンパーに乗りルーフラックへ手を掛けたところで片手を彼女の腰へ添え、踏み込む力に合わせて軽く押し上げる。の膝がラックへ掛かるとそれ以上手は添えず、目の前の女が自力でラックの上に座るのを待った。それから手渡されたバッグをの手に戻し、自らもバンパーへ片足を掛け、ルーフラックへ手を添えたまま体重を前へ送って車体を揺らすことなく身を引き上げる。大した音さえ立てずラックの上へ腰を下ろすスタンリーに、がちらりと視線を投げる。
「お見事」
「軍人なんでね」
「おにぎりの具なんでもいい?」
「ああ」
消毒用のウェットティッシュを手渡して、バッグの中の籐籠からおにぎりの一つを見繕う。ラップに包まれたそれをスタンリーの手に乗せたのち、は保温タンブラーから自身の分の味噌汁をカップに注いだ。いくつもの波が絶え間なく寄せては返す合間に、風に乗って、月を見上げる人々の会話の切れ端が漂流する。ダイク・ロードを走る車が減速して船台脇に入っていく。は注いだ味噌汁が少し冷めたのを確かめて口に含むと、その双眸を満月へと向けた。
「スタンリー」
独り言のように小さな音が白い吐息になって空気に滲む。波間に遠い汽笛が織り込まれる。
「聞いてんよ」
手早く食事と水分補給を済ませたスタンリーが煙草を咥えてライターで火をつける。低くて滑らかな声の余韻が、吐き出された煙草の煙に溶けていく。止まることなく部分食が進行する。月の光度が落ちていく。
「…もし…」
「……」
何かを言いかけたが口を噤む。途端に、嫌だ、と極めて純粋で分かりやすい感情が鮮やかに胸を満たした。駄々をこねるガキ、と仮眠前に全く違う文脈で言われた言葉を思い出す。凍結された案件も、それによって波及的に生まれる別離の可能性も、最後まで見ることの叶わないスーパーブルーブラッドムーンと名付けられた今夜の現象も、何もかもが望み通りにならない。それなのに、それを前にして潔く諦めることも、何かを放り出すこともできずにいる。勝てない戦いばかりで、それでも、何かやれることがあるはずだと思う諦めの悪い自分はその戦場から降りることができない。
「………遠距離になったら 毎日電話してくれる?」
隣に座るスタンリーが一拍のあいだ沈黙したのち、ひどく愉快そうに鼻先で嘲笑って喉を鳴らした。月が本影に深く沈んで、周囲はいよいよ薄暗く異様な光景になっていく。
「電話?なにイイ子ぶってんだ お前 んな従順な女じゃねえだろ」
スタンリーの咥える煙草の先で明滅する小さな火が、星のように瞬く。
「どっちがいい 電話と 毎週帰ってくんの」
その声は大した温度も持たないのに、掠れた含み笑いとビロードのような艶で柔く耳元を撫でた。は予想だにしない返しに目を瞠る。束の間の沈黙を経て、幾度目かの波が寄せる頃に瞬きをする。そうしてその波が引くのと同時に、は小さく軽やかな笑いを落とした。
「…そっちの提案に乗る」
「OK」
煙草の煙を吐くついでのような笑いが空気に滲む。沈みかけの満月が赤く染まり始めると同時に、東の空が明るんでくる。期待に満ちた騒めきがダイク・ビーチのそこかしこから生まれる。賑やかさを増す周囲と相反して、は一言も言葉を発さず、ただじっと薄れていくその美しい満月を眺め続けた。冷たい風が頬を撫でる。地球から最も近い宇宙が沈んでいく。祭りのような歓声が上がる。これほどまでに力強く抗いようのない仕組みの中で、それでも人々はそれぞれの人生を生きている。
「……。」
不意にアウターのポケットの中でスマートフォンが短く振動する。食から抜けないまま薄れて水平線の向こうへ沈んだ月の名残を見届けると、はポケットに手を入れた。携帯灰皿に吸い殻を押し込んだスタンリーが隣で風を読んでルーフラックから降り、新しい煙草を咥える。慣れた手つきで火をつけかけて、しかしスマートフォンの画面に表示された画像を一瞥したの泣きそうな笑いに、スタンリーは即座にその手を止めてトパーズの双眸を向けた。の数度の操作でスマートフォンのスピーカーから鳴り始めたリングバックトーンが、すぐに途切れる。
「ゼノ」
「おはよう」
「おはよう スピーカーにしてるよ パサデナはまだ夜明け前?」
「ああ 君はどこで月を見ている?波の音が聞こえる とすると」
「スタンとテキサスシティダイクにきたの」
「なるほど テキサスで見るなら最もエレガントな選択だな」
低く穏やかな声がスピーカーから届く。はその音を聴きながらひとつ息をついて、手にしていたカップから冷えた味噌汁を飲むと、朝焼けに染まるガルベストン湾を見遣った。
「…もう、沈んじゃったけどね」
「心配ない こちらで続きを見ておくよ」
なんの逡巡もなく返された言葉に、はぱちりと瞬きをして反射的にスマートフォンを見る。四輪駆動車のバックドアに寄りかかって煙草を燻らせていたスタンリーが喉を鳴らして嘲笑う。
「ゼノ」
声が波に飲まれるように揺れて、留めたはずの涙が風に押されて落ちる。電話口の向こうのゼノが吐息だけで笑う気配がする。
「随分元気になったようだな、」
「泣いてるのに???なにを言ってんのゼノ??」
「おお、そうだね だがそれこそが何よりの証左だろう 君は演じるのを止め、いつもの正常系に戻った 今の状態は回復と呼ぶに値する」
冗長系が機能したかな、と含みのある笑いを滲ませるゼノの声に、スタンリーが無言のままちらりとそのトパーズの視線を端末へ投げた。涙を拭いながら笑うの瞳が朝一番の太陽光を受けて綺羅星のように煌めく。
「ボイジャーの通信回復みたいな言い方するじゃん」
は無意識に空に視線を向ける。スピーカーの向こうで落ちる一拍の柔らかな沈黙が朝焼けに溶けていく。
「」
「なに、ゼノ」
「君がかつて例えたように 君を僕の片割れのボイジャー2号とするなら 機体の設計はほぼ同じ 異なるのはミッションとその軌道だけだ」
整えたはずの視界が大きく滲んで雫が落ちる。ゼノの低い声はひとつの澱みもなく、いつも通り完璧に調律されたような音をしていた。朝陽を浴びた冷たい風が吹きつけて息がつまる。次々に落ちる涙が何に触れて生まれたものなのか、数秒経ってから理解すると、は微かな嗚咽を隠すことなく溢して数拍の間沈黙した。車に寄りかかったまま、肺に溜めた煙草の煙を風下に流すスタンリーの静かな呼吸の音がする。鼻先を嗅ぎ慣れた煙草の匂いが掠める。スピーカーの向こうのゼノは何も言わない。何粒目かわからない涙が落ちて、ようやくは呼吸を整える。
「……先に打ち上げられた2号を追い越していくんだ?1号のゼノくんは」
「おお、どうせ軌道は異なる 速度など あまりにも無意味な比較だよ」
知的な愉悦を乗せて返ってくる言葉がやけに明瞭に波間に響く。はその声に涙混じりに大きく笑って、手にしたスマートフォンを僅かに自身に近づけると、朝陽が照らすダイク・ビーチを帰っていく人々を眺めた。
「ゼノ」
「何だい」
「今度ごはん 行こうよ」
「ああ 謹んでお受けしよう」
emersion
07.11.26