小一時間前から降り始めた小雨が窓を濡らす。緩やかに冬から春へ移り変わりつつあっても、2月半ばの雨の夜はまだ冬そのものだった。ケトルを熱するコンロの火の音がやわらに響いて夜のキッチンの静けさを照らすなかで、は戸棚から紅茶を保管した筒を取り出してひとつ息をつく。茶葉をポットに入れた途端、柔らかなオレンジに微かなバニラの混じる香りが漂う。火にかけた湯が沸くまでの間、ぼんやりと火を眺めながらは明日に回した仕事の残タスクを脳内で整理して優先度をつけた。少し経って沸騰した湯を火から下ろしティーポットに注いだところで、窓の向こうから聞き慣れたエンジン音がやってきて階下のガレージが開く。ポットに蓋をして、キッチンカウンターに背を預け壁の時計を見ると時刻は21時を回る頃だった。

「よう」
「おかえり」
「ただいま」

軍制服のジャケットのボタンを外しながら、階段を上がってきたスタンリーが定型文を返して口角を上げる。外の雨の匂いがスタンリーに連れ立って室内に紛れ込む。

「何食べた?夕飯」
「ブリトー」
「片手で食べれて手軽だからって甘えすぎでしょブリトーに…まあ塩分以外は悪くないけ、ど…!」
「一番いいだろ それよか お前にニュースだ」

何の前触れもなく唐突に放り投げられたものを反射的に受け取って、は怪訝そうに眉を顰める。しかし、スタンリーはがそれを落とさず受け取ったかすら碌に確認することもなく、鞄を持って寝室へと向かった。階段を上がり鞄を寝室の入り口に無造作に放る。クローゼットに向かいながらジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛けてネクタイに手を掛けたところで階下から自分を呼ぶ声がする。スタンリーは想定通りのタイミングの想定通りの反応に、誰もいない寝室で殺しきれない声を溢して笑った。階段を上がる足音に振り返って、先ほど放り投げたスタンリーのスマートフォンを片手に、信じられない、と言って飛びついてくるを難なく抱き上げる。

「スタンリー 何これ??」
「全部書いてあったろ 俺に音読でもさせる気かよ」
「え、でも え?こんな」
「確報だぜ それ ちなみに」

ネクタイを緩めて鼻で嘲笑うと、抱き上げられたが笑いながらスタンリーの首に腕を回して顔をうずめた。呻きなのか笑いなのか分からない音を溢す女の心拍がシャツ越しに伝う。自身の心拍の2倍速といってもいいほどのそれに意識を向けながらひとつ瞬きをして、スタンリーはの耳元に小さく頬擦りをした。獣めいた柔らかさがの視線を再びスタンリーに結び直す。顔を上げたが含みのある笑いを浮かべ、スタンリーの頬に手を伸ばすと、それをいつものように無条件に受ける瞳が僅かに細められる。

「遠距離じゃなくても 電話 してくれていいよ」
「要んねえよ」
「……今回はね」
「ああ 今回はな」

は頬に添えた指先でスタンリーの肌を撫でる。金の睫毛が瞬きに揺れて光を弾き、金星のような双眸を煌めかせている。それを束の間眺めたのち、緩んだネクタイを指先の少しの力で解くと、はそっとスタンリーへ唇を寄せた。スタンリーは自身の呼吸を乱してくる目の前の女にその意識の全てを向ける。数拍をかけてが行為の続きを止める意思を持たないことを掴むと、呼吸の合間に喉で笑って、強請られるままに応じながらその足をバスルームへと向けた。









ビロードのようになめらかな音で呼ばれた名前が、瞼の向こうにある朝陽とともに意識に触れる。セントラルヒーティングの稼働音が心地よいホワイトノイズとなって空気に滲む。眠りの深いところに根を張って離れられない意識が、しばしの静寂を食んで再び睡魔に包まれかけると同時に、起きな、と小さく掠れた低音が耳を撫でた。次いでベッドのドア側のスプリングが軋む。タイマーによって毎朝階下で同じ時間に漂う、焦がした木の実にも似た珈琲の香りが嗅覚をくすぐる。

「…スタン いまなんじ」
「7時前」
「昨日の 紅茶そのまんまだ…珈琲で思い出した…」
「あとで片しな」
「うん……」

寝返りを打って手を伸ばすと、それに応じるものがない代わりに頬に少し冷えた指先が触れる。与えられる外気の温度によって急激に眠気から切り離されたは、小さく唸ってついにその身を起こした。PT終わったの、とベッドの縁に腰掛ける男に尋ねかけ、はたとその言葉を止める。耳に残る音を確かめる一拍の沈黙がベッドに落ちる。恨めしげな視線を横の男に投げると、かち合ったトパーズの双眸はぱちりと一度瞬いて、ふいと逸れたかと思えば、すぐにまた戻された。何のことか分からない、という猿芝居も甚だしいその素振りに、は両手で顔を覆ってもう一度ベッドに倒れ込む。

「ねえ〜〜〜 スタンリーー」
「うるせえな いいから起きな 遅れんぜ」
「なんで?声出してないのに…」
「どうかね 最後まで記憶あんのかよ」

目についたシャツを掴んで羽織る最中嘲笑い混じりに放られた言葉に、の動きがぴたりと止まる。近隣の停留所から発車するスクールバスのエアブレーキ音がひどく響いて一瞬の静寂を支配する。ベッドから立ち上がるスタンリーの揶揄いの滲んだ声がすぐ傍で落ちる。

「俺んせいじゃねえよ それ 無理に堪えてっから喉の筋肉が過緊張になって掠れんだ」
「……」
「むしろ俺はやめさせようとしてんだがな 何回促しても直んねえ お前の悪いクセだね」
「わかったわかりました 分析やめてお願いだから もうリビングで珈琲とか飲んでてくれない?」

頼むからどこかに行ってくれ、と訴えるは耳の奥で鳴る心拍の煩さに心底辟易しながら、ベッドから降りるためにコンフォーターを無造作に剥がして畳んだ。肌を重ねている間、目の前の男が自分を読む精度は、最初の夜から少しも揺らいでいない。むしろ、その深度は更新され続けている気さえする。まるで彼の第一言語が身体であるかのように、スタンリーは流暢にこの身体を読む。防御を崩すのはもちろん、自分自身でさえ知らないような領域まで、その手で触れてその目で見てしまえば恐らくほとんど暴いてしまう。ただ、スタンリーは暴いたものを彼自身の中に隠して世界のどこにもやらないようだった。彼に制御や防御を崩され読まれることは恐怖だったが、身体を通して直接彼の感情を渡されることと、精緻に読まれた全てを受け取られ隠されることは、やはり相も変わらず恐怖に拮抗する安心だった。不意に呼吸のついでに鼻で笑う掠れた音がして、は一つ瞬きをする。

「遅刻すんぞ」
「まだ大丈夫 シャワー浴びてくる」
「何時よ 出んの」
「今日は9時」
「じゃあ送ってってやんよ 俺も基地に用だ」
「また?休暇とは…」
「ま 俺らに完全な休暇なんてねえかんな 実際」
「…あれ?」

バスルームへのドアに手をかけて、ははたと立ち止まる。同様に寝室を後にしかけたスタンリーが、その声にトパーズの双眸を向ける。その瞳が、何かを計算するために視線を落として沈黙するを眺める間、寝室には再び温い静寂が満ちた。

「スタン」
「…」
「帰還してからしたくなったの昨日が初めて?」
「ああ」

スタンリーは要領を得ない問いに対し眉間に薄い皺を刻みながらも、何らの迷いもない声を返す。がスタンリーを見遣る。それはまるで論文のリファレンス漏れを確認し直すような視線だった。

「帰還後の検査結果 問題なかったよね」
「ねえよ お前も確認したろ」
「だよね 数値 いつも通りの回復傾向だった いつもと感覚違うとかは?」
「ねえな おんなじだ 回復の仕方」

返事を受けていよいよ深く思考し始めたに呆れた視線を注ぎ、スタンリーはリビングに向かうはずだった足で再び寝室へと戻る。そうして起きがけのままでひどく個人的なことに科学者としての知識とリソースを割く女の背を軽く押した。

 犬みてえに洗われたくねえなら とっとと入りな」
「………ほんと スタンリーって変な個体」
「そりゃいいね 誰も俺ん真似できねえってことだ」








interoception
07.18.26