「 ツィオルコフスキーは暴君だと思わないか」
「……現代のネロみたいな男が何を言ってる???」
朝霧が満ちるJSCの敷地で鹿が草を食む音がする。はコーヒーを片手に自身の愛車を施錠して、研究棟からやってくる見慣れた後輩を呆れた目で眺めた。敷地内の植栽のアザレアがどこからともなく香って、肌寒さが残る早朝にも春の気配が漂う。ゼノは向けられる視線に緩く口端を上げての車の手前で立ち止まった。
「おはよう」
「おはよう、ゼノ」
「すまない この時間しか空いていなくてね」
「……ゼノ先生が大人気でなにより」
妙に艶めいたよそ行きの音が落ちると、ゼノはあたかも勝手知ったる手順を踏むかの如くの声に応じて短く低い笑いを溢す。風に乗って霧に濡れた芝生の青い香りが立つ。
「随分と棘があるな」
「朝はいつも機嫌が悪いの」
「フフ そういうことにしておこうか」
は小さく笑って自身の研究室のある棟へ歩き出し、隣で自身に倣うゼノを見遣る。アイスシルバーの髪が朝霧に滲むように美しいその男は、いつもよりも幾分か機嫌が良く、そしていつもよりも疲労を蓄積しているようだった。視線を横の男に向けて歩くの速度が落ちる。碌に朝陽を通さない霧の中で、本人より先にその変化を拾ったオブシディアンの双眸が静かにに向けられる。それは大した温度もないようでいて、対象をつぶさに観察している様子だった。
「そういえば聞いたよ スタンの再常駐が決まったらしいな」
「なんか国防総省の案件とかやるらしい 詳しくはわたしもまだ知らない」
「ほう」
研究棟入り口の自動ドアをくぐり、すれ違う警備員に軽く挨拶をするの横でゼノがエレベータのボタンを押す。注意をゼノに戻したが、到着したエレベータのカゴに乗りながら何の頓着もなしに、ねえ、と言う。
「ゼノ 今日ランチ空いてる?」
「空いているといえば空いているよ 枠を取って食べるつもりがあまりなかったのでね」
「じゃあ空いてるね」
「何時でもいいのかい」
「”昼時”なら」
「定義のすり合わせからしたほうがいいだろうな それは」
目的のフロアに着くと、人気のない無機質な空気が肺を満たす。ヒールと革靴の音が並んで、静寂に満ちた白い廊下に甲高く反響する。清掃後に残る消毒用アルコールの匂いに、給湯室からの煮詰まった珈琲の苦い香りが薄く混じって鼻先を掠めていく。廊下の突き当たりにある共用スペースのテーブルに腰掛けると、ゼノは手にしていたラップトップをテーブルの上で開いた。
「」
「なに、ゼノ」
「火星まで乗員一人を運ぶとき 宇宙食と包装材が質量収支に何をするか 君は僕より正確に知っているだろう」
鞄を椅子の横に置き、手にしたコーヒーカップに口をつけたの双眸が細められて険しさを増す。また重量の話だ、と胸中で吐き捨てながらは小さく息をつく。少し前に同じ場所で会話した日のことが脳裏をよぎって鳩尾のあたりが冷えるのを、流し込んだ熱めの珈琲で鈍麻させる。最も信頼のおける相手で、きょうだいに等しく近しいはずの男は、しかし自身の科学にとっては理想解をシステム制約で殺そうとする脅威だった。最終判断は大抵いつも、人間を物資とし、正しさを演算で固定する、宇宙機設計の安全と運用だ。
「また削れって話?嫌すぎる どうぞお帰りください」
「いや 逆だよ 僕が欲しいのは君の科学の 排出側だ」
ゼノは人差し指をこめかみに添えて椅子の肘置きに肘をつくと、ぱちりと瞬きをして動きを止めたを静かに見つめた。給湯室にある冷蔵庫のコンプレッサーが時折小さくモーターを鳴らす。どこかの研究室のドアの向こうから、微かに人の会話の気配がする。目の前で束の間思考したのち見返してくる女の視線を、ゼノは実験結果を観察するように拾う。
「…ツィオルコフスキーは暴君ってそういうことね ゼノ ロケット方程式の 質量の”暴政”で泣いてるんだ?」
「おお戦況は 泣くほど悪くもないがね」
意図を掴んで、テーブルに頬杖をつき小首を傾げてこの状況を愉しむに、ゼノは含みのある笑みを薄く口角に乗せた。
「質量という宇宙開発における最大敵と戦う そしてその戦線の一つが 君の領土であることも伝えておこうか」
「……ゼノの戦線にいつの間に置かれたの わたしは」
「さあ いつだろうね」
それは霧に包まれたように柔らかく、まるで中身の見えない音だった。聞き慣れないその音に、は目の前の男を見詰める。しかし、ゼノはただを眺めるばかりで、一つも言葉を発しない。朝の柔い光を孕んで、那由他の星を携えた宇宙の如く豊かな黒の瞳は、その少しの静寂の間、何かを思い返しているようだった。外気と大差ない空気が瞬きのたびに睫毛の先を微かに冷やす。フロアにエレベータが到着して、出勤した研究員が研究室のドアを遠慮がちに開ける。一拍ののち、ドアの閉まる音が沈黙に反響して滲む。
「………欲しいのは排出側?」
「ああ」
「…ちゃんと説明して」
「火星輸送の推進アーキテクチャ設計だよ ご存知の通りロケットが得られる速度変化は推進剤の量に依る そしてその関係は対数だ」
大した興味もなさそうに自然の摂理を誦じて、ゼノはテーブルに置いていたラップトップのスリープを解除し片手で無造作にの側へ向ける。その画面に映る設計案と要件にちらりと目をやると、はゼノが求めている暴政に抗う術を理解して大きく息をついた。
「…長期になる火星輸送には膨大な推進剤が要る けど 単純積み増しはロケット質量の自己増殖になり不可能」
「物理法則の恩赦のない絶対法だな」
「でも最初から質量収支にいる宇宙食と包装材を推進剤に変換すれば 少なくとも食べた後の死荷重は消えて 軽くなるだけでなく燃料になる」
「その通り さすがは僕のきょうだい 実にエレガントな着地だ」
高低それぞれ二つの声が混じり合って、規則的なリズムを生む。階下にエレベータが到着する。階段の空間を伝って、セキュリティカードをかざす音と古いドアの開閉音が反響する。
「いいんじゃない こっちの観点で見ても合理的で頭いい案だと思う さすがわたしの弟」
ラップトップの画面に小さく頷きながらそう言うと、はテーブルに置いたコーヒーカップを掴んで口に運んだ。ついでに通知が届いた腕のスマートウォッチを一瞥する。
「 分かっていないようだな」
「なに?」
「変換効率は包装材の素材で決まる 選定に必要なものは保存試験を通るだけの保存性と 人間が実際に食べるかどうかの摂食受容性」
「分かってるけど」
「これら三つを握って一枚の設計まで下ろせるエレガントな科学者は 僕の観測範囲内では君だけだ」
その声はさながら丁寧に誂えられた美術品の美しさで、人気のない朝の廊下に響いて柔く馴染んだ。はコーヒーカップを口につけたまま、他に向けていた意識と視線をゼノに戻す。宇宙の果てのように底知れない黒の瞳は、少しも問いを持たず静かにを眺めていた。
「……ゼノ わたしをアサインするつもり?」
「無論だ 君以外では僕の設計の相手は務まらない」
「ちょっと 聞き捨てならない うちの研究所には他にも優秀な研究員がたくさんいるんですけど」
「そうか では仮にそうだとして 君は他の人間にこれを任せられるのか?」
「……どういう意味」
長年見知った後輩である男の意図を掴み損ねて、が眉を顰める。足を組んで頬杖をついたまま、ゼノが僅かに首を傾げてオブシディアンの双眸を細める。アイスシルバーの柔い毛先が動きに倣って緩く揺れる。
「例えば僕が宇宙食の重量を削ったらどうする?素材を取って保存性を切り捨てたら?」
「………」
「君ほど苛烈に僕に抗える科学者が 君の研究所にいるのならぜひ紹介してくれ」
疾うに計算済みだと言わんばかりに大した興味も関心も乗せない声でそう言って、ゼノがテーブルの上に置いていたラップトップを閉じる。は暴君も泣いて逃げ出すほどの圧政を目の前で披露する男に、思考を奪われたままひとつふたつと瞬きをする。そうして、どう返すべきか考えあぐねて沈黙しているうちに、ゼノが一つも嘘を言っていないことに気がついた。例えばゼノが例示する事態になったとして、おそらく最後まで、敗北が見えてなお抗う諦めの悪さを最も強く持ち合わせているのは自分だろう。神童として入局し、麒麟児としてキャリアを積み、世界最高峰とさえ言われる男に正面から文句を言える食のエキスパートは、確かにすぐには思い当たらない。そう考えれば、自分は適任者の一人ではあるだろう。しかし同時に、なんで、と腹の底で言いようのない感情が渦を巻く。
「もう手が空いてないって 無理だよ」
は無意識に浅くなっていた呼吸を整えるためにひとつ大きく息を吸って薄く吐いた。目の前の男の助けになれるなら、それは嬉しいことだった。彼の入局時にメンターを務めていた頃から、そう思っていることは少しも変わっていないはずだった。ぐいとコーヒーカップを煽って、熱いラテを喉に流す。ゼノが鼻先で溜息混じりに薄い笑いを滲ませて、口端を上げる。
「……随分と甘えたがりだな もとより君の上長との交渉だ システムに乗せてしまえば”仕事”になる」
喉に残る熱が引くまでの幾許かの沈黙の中で、はゼノのいつも通りの穏やかで品に満ちた声を聴く。磨かれた床に乾いた靴音が響き、遠く廊下の反対側で自動ドアが開く。どこかで誰かが淹れたばかりのコーヒーの香りが空調に乗って空気に混じる。オブシディアンの双眸が、柔く細められて霧の深い朝の光を弾く。閉じたままテーブルの上に置かれたラップトップを眺めて、は手にしたコーヒーカップを僅かに強く握りしめた。
「………ゼノ わたしの科学を あなたの推進システムで支配する気?」
「極めて正確な理解だ その通りだよ」
「…………」
「決まりだな 君のリソース確保とアサインの申請は僕のほうで今日中にやっておく」
「……なんか ムカつく」
「おおそれは我慢してもらうしかないな 僕の設計が一分の隙もなく美しい科学の結晶となるためには エレガントな人材が必要なのでね 余所に渡す道理はない」
異論を滲ませた鋭利な視線を温い笑みで受けて、ゼノはテーブルの上のラップトップを掴むと、組んだ足を解いておもむろに立ち上がった。溶いたばかりの墨にも似た黒の睫毛が瞬きを追って緩く揺れる。コーヒーカップを手にしたまま脱力してテーブルに頬杖をつくが、空調のホワイトノイズにも呑まれそうなほど小さな声で、そういえば、と言う。
「前に軍との会議で 糧食は燃料と同じ、って言った軍人がいたんだよね」
「ほう それはまた皮肉だな 彼らは比喩で言ったんだろうがね 僕は物理で実現するつもりだよ」
「…………”僕は”??」
「おお…朝は機嫌が悪いな 僕たちは、に訂正しておこう」
interlock
07.21.26