「そういえばDr.ゼノと宇宙食の博士って 結局どうなんすか」

どこかのドアが開いて、廊下の一角にある給湯室に聞き覚えのない声が流れ込んだ。コーヒーメーカーのドリップ音に重なって聴こえる足音がエレベータ付近で止まる。シンクに寄りかかって珈琲の抽出を待ちながら、スタンリーはひとつ瞬きをした。

「入局時のメンターとメンティーって聞きましたけど」
「どうやら付き合ってはないらしい」
「え あれで?」
「だよな しかもさ Dr.ゼノの家に泊まってるとこ見たって奴がいる」

聞き返す声がワントーン上がる研究員に、あの辺はうちの職員多いじゃん、ともう一人の男が補足する。

「うわ それもう確定でしょ」
「いや それがな…翌朝別の男が迎えに来たらしいんだよ めちゃくちゃ美形の」

え、と今度は頓狂な音が、乾燥した空気に割れたように落ちた。雲間を抜けた西日が長い光の帯を床に敷く。どこかのドア前でカードキーが読み取られる短い電子音が鳴って、廊下は再び一瞬の静寂に満ちた。

「……三角関係ってこと?」
「深宇宙より謎だよ あの辺は」

スタンリーが音もなく口角を上げる。エレベータの到着を知らせる簡素なベルを合図に、二人はそれきり何も言わずに沈黙した。ドアの開閉音に合わせて、今度こそ午後の日差しに照らされる研究棟の廊下は完璧な静寂に包まれる。珈琲の抽出完了を知らせる小さく甲高い音に、スタンリーはその身を起こして積み上げられた使い捨てのコーヒーカップを一つ引き抜いた。珈琲を注ぐと、ガラス製のサーバーを本体に戻して電源を切り、手にしたカップから一口だけ啜る。そうして腕時計に目を落としシンク横のカウンターに置いていたラップトップを掴むと、記憶にある番号の会議室へと向かった。

「よう ゼノ 早えね」
「やあスタン」

蛍光灯の無機質な明かりが降り注ぐ室内で、ここに来て作業していれば遅刻しないだろう、とアイスシルバーの髪の男がキーボードを叩きつつ大した意識も向けずに応じる。スタンリーはその隣の席に腰を下ろして、ラップトップを開くついでに思い出した先ほどの会話に小さく鼻で嘲笑った。

「ゼノ あんた 三角関係の一点らしいぜ」
「ほう 初耳だな 残りの二点は誰なんだい」

ゼノはタイピングの手を止めて、横に置いていた自身のマグカップを掴みスタンリーに視線を投げる。廊下を行く職員たちの会話の気配が扉越しにぼやけて伝う。

「俺と
「なるほど 僕の家での泊まりが観測されたようだね」

ゼノが記憶を辿りながらそう言って珈琲を口に含むと、それに続いて不遜な声が西日も差し込まない部屋に響いた。

「”めちゃくちゃ美形の男”が朝迎えに来たとこまで割れてんよ」
「その彼彼女は軌道決定でもしているのか?随分高尚な趣味だな それで 君はどの位置なんだいスタン その三角形では」
「負けてる側だ 朝迎えに行くだけの男だかんね」

ゼノの堪えきれなくなった笑いが、口元に寄せたマグカップの内側で小さく反響する。かつてガラのドレス選びに駆り出されたブティックで、同じような誤読をされたことを思い出して、ゼノは重ねるように鼻先で息をついた。

「それはまた難儀だな 健闘を祈るよ スタン」
「いんねえよ つか観測精度が悪すぎんぜ アレでよく科学屋やれんね」

計算もちゃんとできっか怪しいもんだな、とトパーズの双眸を細めたスタンリーが皮肉を乗せて口端を上げると、ゼノが同意を示す小さな音を呼吸に混ぜた。数人が会話しながら廊下をやってくる足音に続いて扉が開く。お疲れ様です、と言ってゼノとスタンリーに目配せをして、研究員らは反対側のまだ誰も座っていない列に並んで腰を下ろした。

が前の会議で遅れている 彼女が来る前に軽く紹介しておこうか」

ゼノが向かい側に座る見知った部下らを眺めると、全員がちらりとスタンリーを見遣ってすぐにゼノに視線を戻す。スタンリーは長い金の睫毛を揺らしてひとつ瞬きをするだけで、その会話には少しの興味もないようだった。

「僕の隣に座っているこの男は国防総省側の連絡将校 スタンリー・スナイダー ここでの役割は主に有人深宇宙運用の生存性ならびに運用に関わる要求…つまり設計の査定だな」
「え、じゃあ宇宙領域の軍組織再編の噂は本当だったんですね」
「さあ NASAと国防総省の共同案件など 昔から山のようにあるじゃないか」

軽いリアクションと挨拶が入り混じってにわかに場が騒めくなかで、スタンリーが横目で出入り口の扉を見遣る。ゼノがそれを一瞥し、自身のラップトップで会議のアジェンダを開くと、軽いノックのあとに扉が開いてヒールが鳴った。

「ごめん遅れました」
「いや 今から始めるところだよ 座ってくれ」

ゼノが言い終わるのを待たず、はゼノの部下らが座る側の空いた椅子を引いた。研究員らが自身を見たことに気付いて、目配せで挨拶をする。そうしてラップトップを開く合間、真横に座る研究員の瞳が再びに向くのを、トパーズの双眸だけが静かに眺める。

「ではインターフェース調整を始めようか 先日渡した宇宙食側のタスクについて アルミ箔を含むフィードストック成立性を上流で検討する件の進捗は?」
「結論から アルミ箔は除去しない」

それは極めて端的で温度の低い声だった。え、と同じ列に座る研究員らのどよめきが会議室を満たすのを気にも留めず、は真っ直ぐにゼノを見た。光を拾わないオブシディアンがそれを迎えて、丁寧に調律された低音が短く、ほう、とだけ響く。こめかみに人差し指を当ててテーブルに肘をつき、ゼノはその口端を小さく上げた。

「おお 初手から実に興味深い報告だね どういうことかな?」
「さっき言ったことがすべて アルミ箔は最初から積まない」

大して面白みもない様子で言いながら、が会議室のモニターの接続端子を手繰ってラップトップに繋ぐ。数秒経ってモニターに映された資料に全員の顔が向く。

「ご存知の通り現行のレトルトパウチは多層ラミネートよ 素材はPET アルミ箔 ポリプロピレン 酸素と水蒸気を止めてるのは実質アルミ箔 でもアルミはガス化しない 反応質量にならずスラグとして炉に残る」

だから、とが言葉を続ける合間に手元を操作して資料の次ページを投影する。ゼノがモニターから自身のラップトップに目を落とす。その機嫌の良い口元はすでに何が提示されるかを計算し終えていることを示しているようだった。

「現行の包装を単一素材で引き直す ポリオレフィン基材に無機蒸着でバリアを張る これなら分別ゼロで炉に直行できるでしょ」
「ああ、なるほど…これなら…」
「ちなみに」

意味深に区切られた言葉でゼノがその視線を上げる。一拍遅れで研究員らが一斉にを見て、沈黙がテーブルを支配する。

「塩素系は候補の初手で捨ててあげた PVDCは可愛がってるこの炉を腐食させるって あなたに泣かれると面倒だから」

ゼノが愉悦混じりに喉の奥で笑う。じっと場を観察したまま動かなかったトパーズの瞳が満足げに細められる。それを視界の端で捉えると、の丁寧にルージュを引いた唇が音もなく美しい弧を描いた。

「僕がまだ指定していない制約まで織り込んだのか おお 実にエレガントだ」
「可愛い後輩の世話を焼いてあげたのよ 先輩としてね」
「フフ…」
「で 満足してるとこ悪いんだけどゼノ ”発注書”に書いてないことまでやってあげたんだからこの解には追加料金がつく それも高額のね」
「聞こうか 幾ら払えばいいのかな僕は」

オブシディアンの瞳が示した強い興味を拾って、は面白そうに小首を傾げた。

「…まず単一素材化すると酸素透過率が上がる 加速試験予測値での保存期限は3年 火星の要求は?」
「最低5年だな」
「そうよね つまりあなたの注文を受けるとわたしの糧食が死ぬ だから条件が三つある」

僅かの緊張を孕んだ研究員らが二人の応酬を見守るなかで、不意にスタンリーが掠れた嘲笑いを鳴らす。ゼノが何事かと隣に座るバターブロンドの男を窺う。

「どっかで聞いたことあんね」
「そうでしたっけ?」
「いいぜ 続けな」

訳知り顔で温い目を向けてくるゼノに目を眇めながら意識を議題へ戻して、が要求管理のシートをモニターに投影する。会議の主役が再び液晶画面になると、全員がそこに映された情報を追うことに集中した。一人、画面を一瞥するだけですぐにそこから視線を外したスタンリーだけが、睫毛の繊細な影を湛えた双眸で全員を眺める。

「一件目 保存性能の落ち分はこっちの中身、つまり水分活性の再設計とフリーズドライ比率の引き上げで吸収する だから包装だけじゃなく宇宙食のすべての設計権をわたしに渡すこと 部分最適の口出しは一切受けない」
「妥当だ 二件目は」
「水は渡さない」
「ほう」
「食べ残しや残渣の含水分は炉に入れる前に乾燥で抜く 回収した水は全量ECLSSに戻す」

研究員らの困惑した気配が空気に混じっても、ゼノとの視線は互いを捕まえたまま微動だにしない。

「閉鎖環境での水の再利用価値は 推進剤としての価値を質量あたりで上回るから」
「おお 僕の炉には乾き切った骨だけ寄越すというわけか」
「ついでに油もあげるよ でも血は返してもらう」

議事録を取る研究員のタイピング音が会議室の静寂を際立たせる。ゼノが吐息混じりに笑って、自身のマグカップを掴みながら続きを促すと、は僅かに視線を落として小さく息をついた。ふと脳裏に以前の軍との会議が蘇る。それに釣られてその先に待っていた敗北を思い出す。自身に向けられる見知ったトパーズの視線を数拍の間待たせてから受け入れると、はようやく口を開いた。

「三件目 この炉の設計流量の定数からいかなる残渣も外す 下限で回るように設計し直して」
「え!でも それだと炉の流量見積もりが」
「日次の発生量は摂取計画により一意に置けるがね」
「置けない」

その短く鋭い音は彗星の如く科学者らの全ての注意を引く。白色蛍光灯の無機質な光を含んだシェリーの双眸がひどく静かに細められる。

「おお そうでないものは”計画”にならない いかに人間でも」
「そうよ 相手は人間であって機械でも物理でもない あなたもよく知ってるでしょ 人間が非合理なのを」
「…」
「……。」
「人間は計画通りに食べない 同一メニューの反復で摂取は落ちる ストレスで偏る 個体差が出る」

乾いた声が冷たい空気の中でやけに響く。緩やかに金の睫毛が揺れて光を弾くのを、なぜだかは自身の言葉の合間で丁寧に見届けた。

「摂取量が揺れれば残渣の量も組成も揺れる あなた方は完璧な数式を立てたいんでしょうけど わたしが渡せるのは定数じゃない 分布」
「下限が揺れるなら上限もバッファが必要だな」
「それは貯留で受ける 微生物学的に安全な貯留日数の上限をこっちで用意する」
「なるほど 周到だね」
「…で?この条件 飲むの Dr.ゼノ」
「飲むよ  実にエレガントな領土侵攻だった」

ひどく満足げな声がそう言って、無意識に息を詰めていた研究員らがその緊張を解く。するとほぼ同時に、がぱちりと瞬きをして微かに眉間に皺を刻んだ。その様子を即座に拾ったスタンリーが喉の奥で笑う。

「侵攻はそっちじゃん…」
「おお そうかな 僕は宇宙食を推進剤に変える回路を引いたつもりだったが 現状を見る限り 僕のロケットが君のシステムの排出口になっている」
「それは侵攻じゃなくて 返り討ちに遭ったって言う」

ラップトップを閉じながら不機嫌を音にするが胡乱な目でゼノを見る。飄々とした様子でそれを受け流すゼノは、研究員らに向き直ると、では、と何の後腐れもなく場を畳み始めた。

「次は僕らのタスクだな 議事録は今日中に共有してくれ」
「承知しました」
「早いが他に議題がなければ会議はこれで終了とする」

各々がラップトップを手に席を立つ。会議室の扉が数人を送り出し、室内が再び静寂に包まれると、気の抜けた様子ではテーブルに頬杖をついた。スタンリーが何の頓着もない顔で冷めかけた珈琲を啜る。

「つかれた…」
「さすがは僕の”先輩”だな 見事だ リソースを取りに行った甲斐があった」
「それ マジで強引にアサインされたんですけど パワハラじゃない?」
 帰り何時よ 今日」
「19時くらいかな スタン 帰り薬局で処方薬受け取っといてくれる?いつものやつ」
「オーケー」

大した温度も持たないなめらかな声に無意識に深い息をつき、は立ち上がってスタンリーのコーヒーカップに手を伸ばす。スタンリーがカップを手の甲で僅かに押してのほうへ寄せる。その縁を掴んで珈琲を一口喉に流し込むと、はありがとうと言ってそれを元の位置に戻した。

「じゃあわたし次あるから」
「ああ」
「ではまた」

軽やかなヒールの余韻を残してが会議室を後にするのをゼノと見送って、スタンリーがラップトップを閉じる。ゼノがモニターの電源を切って、静寂の中で不意に落とした笑いを、トパーズの瞳が追う。

「”返り討ち”か」
「踏み込まれたのはあんたなのに随分ご機嫌じゃん ゼノ」
「おお当然だよスタン 僕は欲しかったものの1.2…いや、1.3倍を手に入れた」
「へえ そうかい」

椅子から立って口角を上げながら短い相槌を打つと、スタンリーは使い捨てのコーヒーカップに残った珈琲を綺麗に飲み干し、潰したそれを部屋の隅の小さなゴミ箱へ放った。吸い込まれるように美しい弧を描いて収まったそれを見遣って、ゼノが立ち上がる。

「昔 彼女が言っていたよ 規定のルールで想像されるものだけを出すなら誰にでもできる その想像の境界を外へ押し広げて初めて 専門家として一つ仕事をしたことになる とね」
「知ってんよ そのセリフ」
「ほう?」
「初めて会った日に聞いた 本人からな」
「……おお そうか フフ……あれを正しく理解している人間は この敷地に僕一人だと思っていたがね」

オブシディアンの双眸が光の粒を弾いて宇宙のように煌めく。入局時まで遡って思い出されるそれは懐かしいようで、常に身近にあるような、不思議な記憶だった。

「悪いな 先客だ」
「順序で言えば僕が先だよ スタン」
「聞いた順の話じゃねえよこれは 残念ながらな」

スタンリーはラップトップを掴んで会議室の扉をくぐる。そうしてポケットから煙草の箱を取り出すと、人気のない廊下でひとつ愉しげに笑った。








isotropy
07.25.26