ガルベストン湾からやってくる春の湿り気を押し返す北風が、3月にも未だ冬の名残を運ぶ。数軒先の家で犬が吠え、遠くの幹線道路からの走行音が絶えず湿った空気に滲む。短いスコールの去った住宅街は、濡れた芝生の青い匂いとアザレアやジャスミンの甘い香りに満ちていた。通りの外れから聞き慣れないエンジン音が徐々に近づいてくる。街路樹のライブオークが北風にしゃらしゃらと揺れる。家の前で一台の車が停まると、運転席からいつかどこかで見た覚えのある正装の男が降りて、助手席のドアを律儀に開けた。街灯の光が濡れたアスファルトに柔く反射している。
「ありがとう 助かったし面白かった 久々に会えて」
「俺も レセプションいると思わなかった てか足元大丈夫?本当にドライブウェイまで入らなくてよかった?」
「平気」
差し出された手を受けて、ハンドバッグを片手にドレスの裾を小慣れた様子でつまみ、車から降りる女が小さく笑う。通りを走る車がスピードを落として二人の立つ横をすり抜け、再び加速して去っていく。
「気をつけて帰って」
「ありがとう じゃあまた」
「うん おやすみ」
おやすみ、と返した男が歩道に移動する女を見届けて運転席に戻る。それからすぐに、その見慣れない車はテールランプの残像を連れて家の前から視界の外へと走り去っていった。夜露に濡れる植物が風に乗って強く香る。歩道から数歩、ドライブウェイへと女が歩いて立ち止まる。家の2階のパティオで小さく明滅する火が煙に霞む。薄く笑いを含んだ女の声が、大した音もない住宅街の夜に響いた。
「スタンリー」
「よう」
「お願いがあるんだけど」
返事の代わりに、大きく吐き出された紫煙が風に流れていく。
「トレーン長くて濡れるから 助けてくれない?」
「持ちゃいいじゃんよ 裾」
「そうなんだけど重いし濡れたらクリーニング面倒」
「そこで待ってな」
スタンリーが咥えていた煙草をもう一度深く吸って灰皿に押し付けると、見慣れた小さな火が消えて、室内に戻るバターブロンドが紫煙の向こうに煌めいて揺れた。少しの静寂ののち、開錠音とともに玄関ドアが開く。遠く唸るような航空機のジェットエンジンが空の彼方にぼやけて小さくなっていく。
「お前さっき平気っつってたろ 」
「スタンがいるからって前提付き」
「面倒くせえな こんくらい自力でなんとかしな」
「使えるものは使えって言ったのスタンでしょ」
ドライブウェイまでやってくる足音が止むと同時に、は何の躊躇もなく担ぎ上げられた。嗅ぎ慣れた微かな煙草が周囲の春の匂いをすべて追いやっていく。通りを抜ける車の開いた窓から、賑やかな笑い声に混じって柔らかなファルセットの歌声と曲の断片がこぼれ落ちて湿度の高い空気に溶ける。スタンリーの首筋に回されたの腕に力が入ると、すぐにトパーズの双眸が静かにを見遣った。
「スタン」
フロントポーチの数段の階段を飛ばして玄関に辿り着いたスタンリーが呼びかけに足を止める。夜のしじまにたったひとつ落ちるその声は、不思議な引力を持つ音だった。スタンリーは抱えた女を眺めるついでにその心拍と呼吸、視線の先を順に追う。腕の力を緩めて、はドライブウェイのほうへ向けていた意識を戻す。アンバーのアイシャドウが瞬きのたびにポーチライトに煌めく。
「んで」
「いや 別に大したことじゃないんだけど 前もこんなことあったなって思った」
普段通りの思考と理性で整えられた言葉が玄関先にそっと落ちる。自分にとっては疾うに形ばかりとなった留保のための前置きに、スタンリーは短く声を上げて嘲笑う。
「別にいつも大したこと言ってねえじゃん」
「スタンリー????」
「2年前だろ」
「……」
まだ本人さえ無自覚な感情が心拍に先に出る。触れた肌から伝うそれを数拍分聞いて、スタンリーが素知らぬ顔でひとつ瞬きをする。ちゃんと覚えてるのずるいって、と半ば支離滅裂なことを言ってが首筋に顔をうずめるのとほぼ同時に、スタンリーは施錠されていない玄関ドアを開けて室内に戻りそれを後ろ手で施錠した。玄関で靴を脱ぎ階段を上がりながら、先ほどよりも自身に密着しているを横目に口端を上げる。
「元彼の車で帰ってきてこれかい」
「ちょっと 別にいいって言ったじゃんスタン」
「ああ 言ったね 好きにすりゃいいってさ」
「……… いいんだ?知らないよ?」
急に攻勢に転じたに喉を鳴らして嘲笑を向け、その身体から伝う体温が上がり心拍が逸るのを肌で捉える。まるで猫に追われたネズミだな、という言葉に反論しかけたをリビングに降ろすと、スタンリーは何かを企む瞳で目の前の女を見詰めた。素直に見つめ返すの首筋に、するりと手を伸ばして触れる。すでに測った通りに速い脈動が指先に伝う。
「どう見ても まるで問題ねえな」
「ねえ〜〜………」
は言いかけた言葉の代わりに強い抗議の眼差しを向けると、首筋に触れるスタンリーの手を剥がして掴んだ。時計の秒針が静寂を等間隔に刻む。美しくカールした余所行きの睫毛の影が肌に落ちる。スタンリーは掴まれた手をそのままに、ただ静かにを見下ろしていた。何の役にも立たない言葉を並べ、飽きもせず抵抗の形を取りながら、の身体が自分から離れることは滅多にない。今も自ら、逃れようとした男の手を掴んでいる。
「これさあ スタン 領空侵犯じゃないの?」
「領空侵犯?めでたいね こんなんただの天気予報だ どこの領空にも入っちゃいねえよ」
「ほんと ああ言えばこう言う」
げんなりした顔で手を離しキッチンに向かうを目で追いつつ、スタンリーはひとつ笑ってソファの肘置きに腰掛けた。2年前の春に、帰んないで、とだけ言ったを思い出す。あの夜も同じだった。欲求を手放しきれず身体では求めるくせに、自身の規定したマニュアルから逸脱することを理性が嫌う。それはずっと変わらないこの女の癖のひとつだった。しかし今はもう、理性の抵抗を迂回してその奥の欲求に応える方法は、自分の手にも身体にも馴染んで当たり前のことになっていた。キッチンにいるが気の抜けた様子で小さく欠伸を噛み殺し、ミネラルウォーターのボトルを掴む。そのまま冷蔵庫を開け中身を物色する姿を眺めて、スタンリーは薄く双眸を細めた。
「ねえ、スタンリー」
森閑とした夜のリビングに微かに響いた声が、スタンリーの意識を強く引きつける。ボトルの水を飲みがてら戻ってくるが、スタンリーの前で足を止める。呼びかけに続けて何かを言いかけたはそうしてそのまま口を噤んだ。ソファの肘置きにおざなりに座っている男の視線はいつもより随分との高さに近い。深い夜のなかで、暖色の間接照明の光を弾く金の睫毛が瞬きに揺れる。じっと離れず自分を観察するそのトパーズの双眸を眺めて、は自分の腹の底で熱を持つものに気がついた。手を伸ばしてスタンリーの頬に触れ、数拍のあいだ、何かを思い出すようにその呼吸の音を聴く。それからそっと唇を落とすと、スタンリーの手がするりと腰に伸びて強く引き寄せられる。短く啄んでは何度も呼吸を奪い合う。あの夜、どんな時より生物として優位であることが露わになった目の前の男を知って以来、まるで抗いようのないこの熱を追いやる術が、見つけられないでいる。腰に触れる手の温度を感じながら、ふと意識の隅で際立つ絶対零度のような冷たい恐怖に、は気付かないふりをした。
「……スタンリーって 野生動物みたいなとこあるよね」
「へえ どこが」
息をつくために身を離したが、ついでのようにくるりと背を向ける。大した興味もなさそうに返事をするスタンリーの指先が迷いなく伸びる。慣れた手つきでドレスの背中中央にあるコンシールファスナーを掴んで、フックを外してからそれを下ろしてやると、がちらりと肩越しにスタンリーを見遣って呆れと愛着の混じった笑みを落とした。
「もはや生得的…… んー……… ”勘”が良すぎるから」
「”勘”?」
不遜と皮肉に満ちた嘲笑が夜の温い静寂を割って、低くビロードのなめらかさを帯びた声の余韻を追いかける。
「 お前の目の前にいんのは狙撃手だぜ ”勘”なんてねえよ」
幾重にも蜜色を混ぜた金星に似た瞳が、挑戦的に細められる。おもむろにスタンリーがソファから立ち上がると、正面を向き直したと目線の高さが反転する。ただの例えじゃん、と言ってばつが悪そうに目を逸らすの顎を片手で掴み、スタンリーはひとつの瞬きの間じっと、仕方なしに自身に視線を戻して寄越すその様子を眺めた。余熱を残して血色の良い頬がリビングの照明の下で詳らかになる。家の前の通りで散歩中の犬同士が吠え合って、飼い主の会話らしき音がぼやけて空気に滲む。の顎から手を離したスタンリーが、背を軽く押して行動を促す。
「とっとと着替えて飯食って風呂入んな お楽しみはそん後にすんよ」
「…え、今日はやめたのかと思った」
「なんで 何も見当たんねえよ やめる理由」
ひどく胡乱げな表情のから投げられる一瞥を、スタンリーは鼻先で笑った。リビングテーブルの上に無造作に放置していた煙草の箱を手にすると、そのままパティオに向かいがてら手元を小さく振って煙草の端を咥える。
「 したくねえならそう言いな」
「いや、そうも言ってないじゃん…」
パティオに繋がる窓の手前で足を止め、煙草を咥えたままスタンリーが静かにそのトパーズの双眸をへ向ける。階段手前で立ち止まって、落ち着かず瞳を彷徨わせるその様子はまるで、着陸点を失った航空機の旋回のようだった。一拍の静寂ののち、スタンリーが喉で小さく笑う音がリビングに柔く響いて溶ける。
「ホント お前はぐだぐだうるせえね いつも」
「それギリギリ悪口じゃない???スタン???」
「聞こえねえな」
「急に耳遠くなるのは何?」
tacitness
07.31.26