「これで全部です 保管分は明日の便で研究所へ 空パウチと未使用の評価票は廃棄済、廃棄記録もこちらに」

時計の秒針が際立つほどの静寂が、午後のひんやりとした会議室を支配している。すでに将校が署名している共同開発の終了確認書に自署し、は自分の向かいに座る怜悧そうな壮年の将校の手元へ、そっと二枚の書類を滑らせた。だだっ広い会議室の大きなテーブルの上を、折り目ひとつない紙が渡る。将校はしばしその双眸を記載内容に注いだのち、受け取った廃棄記録と終了確認書を手持ちのフォルダに収めた。冒頭で受け取った将校の名刺が、視界の隅で白く光を反射して眩しい。

「確かに」
「保管分のデータは凍結時点まで全て整理しておきます 再開の判断がいつ下りても 引き継げるように」
「ああ …率直に言えば こういう形で締めることになったのは残念だ 現場の評価は高かった」
「ありがとうございます」

椅子の背凭れへ身を預けながら大きく息をつくと、その将校は自身のマグカップを掴んで口に運んだ。滑走路から薄く届く離陸音に、は窓へ視線を向ける。金属製のブラインドの羽根の隙間から、3月下旬のパンハンドルの日差しが縞状に会議室に落ちている。ふと冬の夜にクローゼットのルーバーから差し込んでいた光が脳裏をよぎって、は冷たい針に突き抜かれたように心臓がひどく冷えて重くなっていくことに気がついた。温度のない不安に追い立てられる心拍から気を逸らすために、自分の呼吸に意識を集中する。それは久々に味わう感覚だった。ごとり、とテーブルの上にマグが置かれる音が孤独に鳴る。

「博士 今回の件についてだが」
「はい」

先ほど書類を仕舞ったフォルダとは別のものがテーブルの上を滑る。それを受け取り、中身を開く前には将校を一瞥した。テーブルの上で手を組みを眺める将校がフォルダを見るよう促す。

「案件の開発予算は1月に止まり本日付で終了となった だが訓練環境下の喫食データの収集は 組織間の別枠の権限で生きている」

将校の声の余韻が消えると、低く薄い空調のノイズと時計の秒針だけが会議室に響き続けた。開いたフォルダの中の用紙には、見慣れた名前を含む複数の部隊リストが記されている。はそのリストを眺めながらただ、向かう先も得る形もないのに、と乾いて胸中に浮かんだ言葉を瞬きひとつで押しやった。

「対象はこのリストの部隊群 頻度は四半期に一度程度 様式は現行のもので構わない 運用上の調整は任せる」
「……別枠で生きているとはいえ このまま継続する理由は何ですか?」
「予算というものは戻る時は急に戻る それが分かっていてその時にゼロから積み直す者はいない データの連続性は我々にとっても保険だ」

それは当たり障りのない、蓋然的で完璧な正論だった。向かいに座る将校の声を聞く合間、リストの一番上の見慣れた名前を目でなぞって、はこの状況を思った通りには処理できていない自身の感情を観察する。案件が凍結した今、細くとも先がなくとも形がなくとも、続くものがあることは望ましいと言えるはずだった。しかし、実際には惰性だと思っている自分がいる。これはこれで将校が言うように組織にとっては必要で、保険として意味のあることだ。無駄だとも無価値だとも微塵も思ってはいない。それでも、その目的はデータ収集を続けること自体であって、科学を活かす算段にも、生存に届く手段にもなっていない。ただの停滞だった。自分じゃなくても、と思ったところで、再び遠く滑走路からジェットエンジンの音が滲んで、はそっと視線を上げた。

「引き受けてもらえるか できればこのまま博士に任せたい」
「承知しました まずは収集計画を作成してお送りします」
「助かる」
「来週前半を目処に共有する形で問題ないですか?」
「ああ」

将校が手元のフォルダを片付けマグカップに残った僅かの珈琲を飲み干す間に、も荷物をまとめ会議室を出る準備をした。受け取ったフォルダに将校の名刺を挟み、バッグに仕舞ったところで、将校が立ち上がる。それから会議室の扉を開けて、それを押さえたまま、先に出るように促す。寸分の乱れも見当たらない軍服に身を包んだ、背の高い筋肉質な将校の傍を遠慮がちに潜ると、薄く石鹸の匂いが鼻先を掠めた。ああ、それと、と言って将校が少しの茶目っ気を含んだ笑いを浮かべてを見遣る。

「?なにか」
「さっき渡したリストの一番上は手間がかからないぞ スナイダーの部隊は放っておいてもデータが揃う」

は一拍の間、目の前の男の愉快そうな表情をただ眺めた。将校が会議室の扉を閉める音が、無機質な廊下に満ちる静寂を容赦なく散らす。しかしすぐに、電源や空調のノイズ以外は何もない密度の高い沈黙がその余韻の後を追って空間を埋め尽くした。二人が歩き続ける間も、いくつもの監視カメラが音も立てずに廊下を見つめ続けている。

「一度あの男が書き込んだ評価票を見たことがあるんだが うちの検査官より細かかった」
「大佐が評価票を?」
「ああ 君も糧食の研究者ならもちろん見たことあるよな」
「ええ」
「検査官の方が向いているんじゃないかあいつは」

建物を出て、フライトラインに面した歩行路を横並びで歩きながらぼやかれる言葉に、は無意識に声を溢して小さく笑った。ちらりと向けられる視線に気付いて隣を歩く将校を見返すと、太陽光を受けてサファイアにも劣らない碧眼が薄く細められる。

「彼は空戦も狙撃も優秀と伺っていますよ」
「異論ない 空戦技術も抜きん出ているが 狙撃については仕留める執着と忍耐も含めて別次元だな 狙われたら終わりだよ」
「ではそれが彼の本分なんでしょう 検査官は老後にでも 根に持たれて大佐が撃たれても困りますから」
「ははは」

周囲が広く開けた歩行路に不意に生まれた一際大きな笑い声が、松の樹脂と白砂の香りを運ぶ海風に押し流される。その突然の声量に一瞬びくりと肩を揺らしたは、横で心底面白そうに笑う将校の様子に一つ息をついて、びっくりした、とほとんど口の中でだけ呟いて笑った。風が吹くたびに潮の香りが薄く漂って、松の細い葉が揺れて鳴る。

「具合は良くなったようだな 博士」

規則的に並んでいた足音が俄かに一つ減り、残されたそれも数歩分進んだ後に止む。将校が振り返ると同時に、先に足を止めていたが無意識に半歩下がる。

「さっきの呼吸だ リズムを意識的に変えていただろう」
「…」
「先程も言ったが こういう形で案件を終えることになったのは残念だった」
「いえ こういったことはこの仕事をしていれば どこかで経験することですから」
「まあ そうだな」

薄く乾いた笑いを滲ませて将校が短い相槌を打つのを、は丁寧に整えた笑みで受けた。ふと自身に向いていた碧眼がその意識をフライトラインへと向ける。釣られてその先を目で追ったのと同時に、風に乗って、ひと月ぶりに聴く耳慣れた冷たい絹のような声がした。噂をすれば、と将校がに目配せをする。

「二回目の左旋回 内側入りすぎだ」
「詰めました 次のパスで500に戻します スタンリー隊長」
「…」
「今日もう一度だけ一緒に飛んでくれませんか」

は格納庫へと向かうパイロット二人から自身の腕時計へ視線を移して、将校に、そろそろ、と声をかける。しかし再び並んで歩行路に響き始めた二つ分の足音に混じる、風に乗って届く声を、ついには上手く聞き逃すことができなかった。

「ちゃんと掴んでおきたいんです スタンリー隊長の動き ボクの仕事は 隊長を殺させないことなので」

足を止めず将校に倣って歩き続ける。奥の演習場方面で地鳴りに似た砲撃の音が響く。甘く重い松の樹脂の香りに混じる硫黄臭が鼻を突いて、は言葉もなくただひとつ瞬きをした。駐車場手前で立ち止まった将校が、砲撃音の合間を読んで正確なタイミングで口を開く。

「では私はここで 君はこの後このままヒューストンに戻るのか?」
「いえ ちょうどペンサコーラで宇宙飛行士たちの訓練があって 次はそちらに」
「いつもの水上サバイバルか」
「はい」

なるほど、と合点がいった様子で頷いて、将校はスラックスのポケットに片手を入れ笑いながら息をついた。その胸元ではリボンラックと徽章が眩く太陽光を弾いている。一陣の風が吹き抜けて、松林が騒めくのを耳に、は胸元に挿したままだったサングラスをかけた。

「また何かあれば言ってくれ 引き続きのデータ収集についてもよろしく頼む」
「ええ 大佐もお忙しいでしょうに 見送り感謝します」
「いや、仕事を頼んだのはこちらだからな 大したことではない 気をつけて」
「ではまた」








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08.06.26