昼間は夏の気配すら感じるほどでも、夜ともなるとまだ少し肌寒い。白いクォーツサンドの浜が月明かりを受けて淡く光るのをぼんやりと視界に収めながら、は手元のグレープフルーツギムレットを口に運んだ。ジンの草木の香りが鼻を抜けて、グレープフルーツの爽やかさと皮の苦味が舌に触れたあと、甘めにと頼んだ通りにシロップの強い甘味が喉を撫でる。ペンサコーラ・ビーチに面したレストランは高級志向なこともあり、スプリングブレイクの最中にもかかわらず大衆向けの賑やかさは微塵もない。夜も半ばのテラス席ともなれば、それは尚更だった。羽織った薄手の黒いカーディガンの裾が海風に微かに靡く。ワイングラスに入ったキャンドルの火が細く揺れて、テーブルの中心部を照らす。
「七味唐辛子とサーモンのソテーです ごゆっくりお楽しみください」
七味唐辛子をまぶして香ばしく焼き上げたサーモンに、トマトとドライチェリーのチャツネを添えた一皿がテーブルに乗せられる。湯気のたつ皿から焼き色のついた身とマッシュポテトの温かい匂いが漂う。不意にテーブルに置いたスマートフォンが振動して、は反射的にそれへ視線を向けた。液晶画面には見慣れた名前が表示されている。いつもならすぐに取るそれを数秒見つめるうちに、着信は不在になり、やがて画面の明かりが落ちる。そっとスマートフォンを裏返し、カトラリーを手にしては目の前の食事に意識を逸らした。皿の端のチャツネをナイフの先で掬ってサーモンに乗せ、フォークで身を押さえて静かに刃を入れる。寄せては返す波の音が、時計のように一定の間隔で繰り返す。その音に釣られ、幾望の月が照らす黒い海に薄い白波が立つのを眺めて、は見届けることができなかった皆既月食を思い出した。凍結した案件について、せめて終わりまで見届けようと思っていた。現場に実装されなくても、届かなくても、なかったことにはしないつもりだった。だからスケジュールが押しても調整して、自らの手で案件を閉じた。それなのに、閉じたはずのものはどこへ向かう目的もないまま、生きることになった。テラスと室内を繋ぐガラス戸が開いて、控えめに響くモダンジャズが波間に流れる。テーブルの上を転がる楽しげな会話が輪郭のぼやけた音になって滲む。焦がしバターとミニョネットソースの香りを含んだ暖かな空気が、束の間漂って夜の春風に溶けていった。はフォークの先で刺したままだったサーモンを口に入れる。運ばれた時には確かに温かかったはずのそれは、夜風に撫でられてすでにほとんど冷え切っていた。
「失礼いたします」
ウェイターがそっとテーブルの様子を確認しグラスに水を継ぎ足して去っていく。夜のビーチに賑やかな若い男女の笑い声が弾ける。チャツネを重ねたサーモンを口に運びながら、合間に横に添えられたマッシュポテトを挟む。昼間に見かけた若いパイロットの声が脳裏をよぎる。殺させないことが仕事。希望と情熱に満ち、迷いのない音だった。命懸けで戦い、命懸けで守る仕事の向き先に、満足しているその声を、意識が何度も連れてくる。たった一人を何が何でも生かしたい、と格納庫で思った夏の日から、できることを探してきたつもりだった。しかしその目的に対し科学者としての自分が持つ手段を廃棄した日に、その一人を最も近くで生かし続けられる手段を備えた存在がいた。鴎が鳴いて暗い空を飛んでいく。は食べ終えた皿にカトラリーを乗せて、先ほど継ぎ足された水を口に含む。それから飲みかけのギムレットのグラスを掴んで、ゆっくりと喉に流し込んだ。漠然とした霧のようなものが、真綿となって喉を締め続けている感覚が、ずっと消えない。ちょうどガラス戸を開けてやってきたウェイターが、空いた皿を下げ、デザートを置く。
「蜂蜜のベイクドチーズケーキ、桃のコンポート添えです お飲み物は少し置いてからお持ちします」
テーブルの中央で、橙色の小さな火がグラスの縁に反射して星のように瞬く。はしばらくの間じっとそれを眺めながら、途切れることのない波の音を聞いていた。テラスの反対奥で夫婦客が席を立ち、満足げに笑って店員に声をかけ去っていく。照明を弾く銀のデザートフォークを掴んでチーズケーキの端を掬ったところで、スマートフォンが一度短く振動する。食事の前に伏せた端末を手で返して、画面に目を落とす。それは薬局からの経口避妊薬の処方箋更新の通知だった。年に一度届くそれを大して確認もせず横に流す。元々は研究者になってすぐ、自分自身の味覚と嗅覚を周期による揺らぎから薬理で切り離すために始めたものだった。食に必要な器官を自己管理することは、自分の科学においては何より先立つ。ふと入局したての頃を思い出して、は静かに瞬きをした。ずっとプライドを持って、やってきたはずだった。幾許かの波が過ぎた頃、ようやく手にしたままのスマートフォンを操作して耳に当てる。数度のリングバックトーンののち、受話口から大層穏やかで品のある声が届く。
「やあ 何か用かな 」
「ゼノ 今平気?」
「ああ 構わないよ エグリンはどうだった」
「恙無く 今はペンサコーラだよ」
「そうか ビーチで食事中かい 波の音と客らしき声がする 誰とかな?」
「…」
「珍しいな 一人とは 宇宙飛行士たちもいないのか」
「たまにはね」
「君が一人で食事をするとなると 閉店に間に合わない可能性があるな」
いつも決まって急かす男がいるだろう、と鼻先で僅かに笑う気配がして、は手にしていたチーズケーキの端を口に含んだ。
「ねえゼノ」
「何だい」
「来月の調整会議の前に確認したいことがあって」
「聞こうか」
「植物生産系の枠 電力配分で削られずにまだ生きてる?」
「生きているよ 削る理由がないからね」
「ならこの間の会議での一つ目の条件 一部返す」
ウェイターがそっとテーブルの上にエスプレッソマティーニを置いていく。会計を済ませる客と店員が会話する軽やかな声が波間に混じる。
「おお 何故かな」
「栽培でミッション後半の水溶性ビタミンを現地供給できるなら 貯蔵側…宇宙食で担保する栄養価の範囲は狭くなる つまり加熱強度や過剰添加の設計が軽くなる であれば設計権もそこまで広くは要らない」
「ほう 君が自分から領土を返すとは 随分と珍しい外交方針だな」
「ただの設計の話じゃん 新鮮供給を生む栽培系を積むなら コスト的にも宇宙食側の役割重複は整理すべきでしょ」
テーブルの上のワイングラスの中で、キャンドルの火が揺れる。その小さな火が溶けながら明滅するのを、は数拍のあいだ漫然と見つめた。
「二重化してる手段は劣後する側を落とすのが 設計として正しいよね」
鴎が鳴いて、寄せて返す波がそれを追う。回線が繋がっているはずの受話口の向こうは静寂だった。デザートフォークを皿に置いてエスプレッソマティーニに手を伸ばしたところで、小さく、しかしひどく甲高い音が響く。全員の視線がに刺さる。さっき皿に置いたのと似たものを持ったウェイターがやってくるのが見えて、はちらりと自身の足元に目を落とした。どうぞ、と最小限の発話で新しいフォークをテーブルに置き、落ちたそれを拾っていく指先がの視界から外れる頃には、すでに周囲の関心は一つも残されていなかった。
「なるほど 正論だな」
テラス席の他所のテーブルで、グラスの触れ合う音がしてアルコールの入った笑いが弾ける。黒い海の奥で光る航行灯を眺めながら、は今度こそエスプレッソマティーニのグラスを掴んで一口含んだ。受話口の向こうで椅子を立つ気配がする。
「ただしその正論は 同種冗長に限定されるがね」
「…」
「同じ性能のシステムを二つ積んだのなら 確かに片方は余剰だ 削ればいい」
月明かりを含んで眩い白浜に風が吹き、畳まれたパラソルの影が揺れる。テラス席の客がメニューを片手に店員を呼ぶ。は何も言わずに瞬きをすると、手にしたままのマティーニに再び口をつけた。
「だが貯蔵と栽培は壊れ方が違う異種だろう 宇宙食の劣化は打ち上げた瞬間に確定する時限式 どれほど精密に作っても止められない 一方の栽培は病害や養液の異常などで失敗するが 枯れた株を抜いて再播種すれば生き直す」
君が一番よく知っているはずだが、という言葉に温度もなく混じる皮肉が耳元を撫でる。マティーニグラスをそっとテーブルに置いて、は暖色の照明を反射するカクテルにただ意味もなく視線を預けた。
「そもそも"冗長化"の話ならば 異なる二つを併走させることにしか意味はない 性能の優劣で降ろす側を決める設計など どこにも存在しないだろうね」
「……」
しばしの静寂が波音に揺られる。電話の先でコーヒーメーカーの完了音が鳴って、陶器が何かに触れる。冷たい夜風がテラス席を吹き抜けていく。それは昼間と似て、潮の香りと少し湿った砂の匂いがした。
「どうやら反論はないようだね ならば君が先日出した三条件は変更なしだ 来月の会議も現行のままで進める」
「……」
「さて おお随分と長電話になってしまったな デザートの進捗は?」
「…まだ」
「だろうな」
ゼノが微かに笑う。ガラス戸が開いてテラス席に店内の騒めきが溢れ、運ばれるワイングラスからシャルドネの果実香が漂う。それに重なるゼノの低く柔らかな声は、温かくも明るくもない静かな春の夜に見事に馴染んで溶けていった。
「では 良い夜を」
farside
08.08.26