海風前線によって突如訪れた局所的な春の雷雨は、瞬く間に視界を白く染めた。先ほどまで夏の気配すらあった気温が一気に下がり、肌寒いまでになる。それは、4月の初旬が終わる頃の強い日差しが、北西からの重い鉛色の雲に覆われてからものの十数分のことだった。は薬局の出入り口から車までのたった数十歩で相当の雨を受けた身を運転席に押し込んで、いつもの処方薬が入った鞄を助手席に放る。少しの間、雷雨に囲まれた車内でぼんやりとその喧騒に身を浸しながら、明後日帰る、とだけ示された二日前に届いたメッセージを思い返す。やがて銃弾のように車に打ち付ける雨音の中でひとつ溜息をつくと、は車のエンジンをかけて自宅へと向かった。
「…」
少し早い時間帯だからか、夕方にもかかわらず帰路には大した混雑もない。しかし家の前の通りに入ってすぐに、は車の速度を落とした。雨に烟る先に、一月半ぶりに目にする見慣れた四輪駆動車がいる。同じ目的地の前でドライブウェイへ入り、ガレージが開くのを待って進むそれを、は瞬き一つで見届ける。それから、運転するスポーツセダンを同じドライブウェイへと滑り込ませようとして、ゆっくりとブレーキを踏んだ。ワイパーがまるで役に立たないほどの雷雨の中、フライトスーツを着たバターブロンドの髪の男がガレージから何の躊躇もなく悠然と出てくる。そうしてドライブウェイに落ちていたライブオークの太い枝を掴むと、それを大した労もなさげに引き摺って脇へ寄せた。ちらりとこちらを向くトパーズの双眸に応えて、ガレージに車を入れる。エンジンを切った途端に湿った静寂が車内を埋め尽くす。数拍のあいだフロントガラスを滑り落ちる雫を見詰めていたは、背後でガレージシャッターが閉まり始める音に促されて助手席のバッグを掴んで車を降りた。
「よう」
「ありがとう 退かしてくれて あれ」
「お前ん車じゃワンチャン越えられても腹擦っかんね あのサイズの枝は」
短時間で完全に水気を帯びた深いウィスキー色の髪を無造作に払って、スタンリーが小さく口端を上げる。フライトスーツの上半身を下ろして水を絞り腰で袖を結ぶと、スタンリーは中に着ていたTシャツを掴んでそれを脱いだ。ガレージシャッターの向こうで雨が激しく地面を打つ。明かりをつけないガレージに稲光が走って雷鳴が後に続く。
「着替え 持ってくる?」
「ああ」
四輪駆動車に寄りかかって自身を眺める男を一瞥して、はすぐにガレージと室内を繋ぐドアに向かった。重い防火ドアが閉まる。エンジンの余熱が漂う薄暗い中で、スタンリーは音もなく肌を伝う温い雨粒を拭った。四輪駆動車のバックドアを開けて荷物を降ろし、ほとんどひと月半ぶりに交わした会話に鼻を鳴らす。先月末、部隊が持ち運ぶ研究資材の廃棄のためにエグリンにきた見慣れた女は、エプロンからの遠目ですら、いつも通り軍の施設に馴染めず窮屈そうだった。戦闘機が飛び立つのを見て、すごい、とだけ言ってすぐに業務を急かされた、と報告するブロディが笑っていたのを思い出す。帰投して戦闘機を降りてすぐ、フライトラインで再び見つけた時には、随分と摩耗している様子だった。闊達に笑う大佐の声に驚き、パニックアタックへの対処を見抜かれると、無意識にその身を一歩引いて防衛する記憶の中の姿をなぞって、スタンリーは降ろした荷を棚へ収納しながら瞬きをした。ガレージの内ドアが開く。首筋から鎖骨を雨粒が滑り落ちる。
「スタン タオルと着替え」
突風が吹いて豪雨がシャッターに叩きつけられる音に、は咄嗟に目をやった。差し出されたタオルを首にかけて着替えを受け取ったスタンリーが静かにその様子を観察する。
「」
自身が気付くより先にスタンリーに向いた視線が、その瞳に掴まれる。冷たい絹のような声が薄暗いガレージを包囲する雷雨の音すら意識から退けていく。
「演習中に届いてたぜ 俺ん署名待ちの書類」
「ああ うん 送ったからね 喫食データ収集の運用計画」
「それについてきた部隊側担当者の選出依頼んほうだ すっとぼけてねえで説明しな」
飛電が空を割る。オイルの匂いが僅かに漂う仄暗いガレージで、美しいトパーズの双眸が捉えた獲物を逃がす気配は微塵もなかった。それでもは捉えられてから二度目の瞬きで、ついでを装って目を逸らす。ガレージ上部に取られた細長い窓やシャッターから伝う雨音が容赦なく静寂を潰していく。
「…部隊側に担当の人を置いてもらって現行様式のまま回すって話?それでわたしが行くコストも工数も浮くじゃん 合理的…どころか、そもそもあの数の部隊をわたしが四半期ごとに回るのは現実的に不可能なの」
雨に混じりはじめた雹が甲高い音で空気を刺す。緊急気象警告によりスマートフォンがけたたましく鳴り響いても、スタンリーは毫も視線を逸らさず、ただ手元だけでそのアラートを止めた。
「”合理的”かい 言うじゃんよ 日程ずらしてまで自分の手で案件仕舞いに来た女がさ」
「あれはクロージングだから 破棄には立ち会いと記録が要る そういう規定でしょ」
「へえ」
スタンリーが側の作業机に着替えを放る。おざなりに掻き上げられたバターブロンドの髪から雫が落ちて、首元のタオルに滲む。涼やかな眉の端を居丈高に上げ、爛々とした瞳が嘲笑う。
「んじゃ規定がなけりゃ ブロディに投げて終わりにしたか」
「……」
撥水性の高いフライトブーツが濡れた足音をひとつ鳴らすのを、は沈黙で耐える。しかし、二つめの足音が雨音に混じってすぐに、久々に触れる男の指先がの顎を掴んでその沈黙の息の根を止めた。
「俺の目え見て答えな」
街路樹が強く風に揺れる。豪雨とともに風に煽られ、聞こえてくる音は高波に似ていた。囂々たる外界に紛れ込ませて薄く息を吐く。スタンリーの肌を一雫の雨が伝うのを眺めて、はようやく目の前の男の双眸を受け入れた。誰より精緻に自分を読む男の瞳は、少しの光しかない暗澹たる空間ですら、その底に揺るぎなく美しいベテルギウスの色を湛えている。
「…………… やった 自分で」
「次のに行かねえ理由はなんだって?」
「……………… この仕事は 誰がやっても回るから」
「そりゃそうだろ 投げたお前の代わりに誰かがやんだからな」
「………そうじゃなくて」
「……。」
「…………」
「キャパ超えんなら分担すりゃいい だがな 全部離すってんなら プロとしちゃ失格だ お前がやってんのはただの放棄だぜ」
フライトスーツの結んだ袖から床へ雫が落ちる。雹の甲高い音がいつの間にか薄れ、周囲は地面を打って烟る程の滂沱の雨音に満たされていた。外で、遠い防災サイレンの音が響いている。
「」
ガレージに落ちるスタンリーの声は静かだった。すべてを予測の範疇としているように凪いだその音は、外にあるどんな暴力的な音よりの恐怖と不安を引き摺り出した。
「泣きながら俺に全部を賭けた女が その賭け金を他人に預けんのか」
乾き始めて鈍く艶めく金の睫毛が瞬きで揺れる。
「随分と”軽い”ね」
顎を掴んで自身に向けさせたままのスタンリーの指先が、幽かにの肌をなぞる。ガレージにはしばらくの間、何の言葉も生まれなかった。真冬の夜を思い出して、は触れるスタンリーの手を剥がして離す。しかし、スタンリーの手がの手を追って再び握る。あの日、車の中で号泣しながら、それでも味わったことのない恐怖を受け入れてスタンリーに向き合うと決めたはずだった。
「…離して」
「なんで」
「だって」
鮮やかな青の空に美しく飛び立った二機の戦闘機が、フライトラインから届いた迷いのない満足げな声が、脳裏をよぎる。
「祈って待つだけの位置に自分を置くくらいなら」
「……」
「もう その位置ごと降りたい」
は掠れた声でそう言って、目の前の男に掴まれた手に視線を落とした。雨に打たれてもすぐに体温を取り戻す指先が、冷えた手を微かに撫でる。ふと、自身がそれに応えて無意識にスタンリーの手を握り返したことに数拍遅れで気がついて、はにわかに熱を持つ双眸を瞬きで受け流した。自分を誰より知っているであろう男に掴まえられて、根底を問われ、追いやっていた感情が心拍を打つ。特別だから、全部を賭けるつもりだったから、祈って待つだけの人間になんてなりたくなかった。だって、そうなったら、いつか彼が帰らなかったとき。真綿のような感覚が喉に詰まる。スタンリーのフライトスーツの端から、絞りきれなかった雫が落ちる。打ち付ける雨音に囲まれたガレージで、それは不思議と際立って響いた。
「スタン 着替えて」
「……」
「…ご飯食べて お風呂入ったら つづき 話そう」
ひとつ、ふたつとスタンリーの濡れた肌を上下させる静かな呼吸が沈黙を生む。空いたスタンリーの手がするりと伸びて、の頬に触れる。顔を上げたを迎えるトパーズの双眸は、その手が熱を分けるように頬を撫でて離れるまでのあいだ、ただ真っ直ぐに目の前の女を見詰めていた。
「スタン お風呂」
「ああ」
「ちゃんと湯船に浸かってよ 雨に濡れたんだから」
「あの程度 屁でもねえけどな」
食事を済ませ、風呂から上がってリビングに降りると、喉を鳴らして軽口を叩くスタンリーをは胡乱な目で見遣った。行動までに一切の無駄がない男を少しのあいだ見送って、キッチンに向かう。ミネラルウォーターのボトルを掴んでリビングに戻り、テーブルに置いたラップトップを開いてソファに座る。水を飲んでキャップを閉め、おざなりに自身の横に放って画面のロックを解除すると、前回閉じた際に開いたままだった電子化した評価票が表示された。エグリンで冗談じみた笑いを浮かべていた将校が言った通りに、見慣れた筆跡で記されたその票は、いつ書かれたものを見ても収集したどの記載よりも細かかった。
「…」
泣きながら俺に全部を賭けた女がその賭け金を他人に預けんのか、と問うた、凪いで静かな声が蘇る。数年前の冬の夜の駐車場が頭の片隅を離れず、はその光景を追いやるために息をついた。評価票を閉じ、カレンダーを開いてざっと今年のスケジュールを確認した後、局内で使われているチャットアプリに溜まっている通知を片付ける。メンションされたメッセージを古い順に下からさらう。添付された書類を検め、返信文を打ち、次の通知にはカレンダーで会議予定を入れてから日程の記載と併せて返す。静寂の満ちる夜半のリビングに、しばしの間、途切れることなく軽やかなタイピング音が踊る。窓の外では、風に吹かれるオークの葉擦れが潮騒めいて鳴っている。夕方にかけての局所的な雷雨の騒々しさが嘘のように、外に広がる春の夜はひどく長閑だった。すべてのメッセージを捌き終え、立て続けにメールを確認する。数件の未読に目を通すと、喫食データ収集対象リストの部隊のいくつかから、承諾する旨の返信が届いていた。随分と軽いね、という声が耳奥で燻ってエグリンの景色に混じったところで、寝室から降りてくる足音に、は膝に乗せていたラップトップを閉じてテーブルの上に置いた。
「水要る?」
「ああ」
先ほど自身の横に放ったペットボトルを掴んでスタンリーに渡す。それを受け取って、いつも通りにの横に腰を下ろす男の無造作なバターブロンドの髪が、柔い照明を受けて艶めく。スタンリーがボトルのキャップを開けて喉に水を流し込むと、もう疾うに嗅ぎ慣れた深いウッドのボディソープの香りが鼻先を掠めた。
「……スタンリー」
「……。」
呼びかけに目線だけで応える男に、用意していたはずの言葉を刹那のあいだ見失う。キャップを閉める小さな音だけが、夜のしじまに束の間漂う。見失った言葉をもう一度手繰り寄せては静かに口を開いた。
「…年に一回は わたしが現地へ行く でどう」
「できんのか」
「……できる」
「なら書類に関しちゃそれで通す」
明日条件付記して突っ返すから出し直しな、と大した温度もない揶揄まじりの声が余韻に艶を乗せて溶けていく。そうして一拍をおいて続く、さして声量を要さずとも自身の意識を捉えるなめらかで低い声に、は静かに瞬きをした。
「だが これはそういう話じゃねえかんな 釘刺しとくぜ」
水溜りを踏む車の走行音が家の前を通り過ぎていく。スタンリーはソファの背もたれに身を預けながら、窓ガラスに残る雨粒を漫然と眺めるの目線の先を追う。
「……わかってる」
「ならいい 今はな」
ペットボトルへ伸ばされたの手に、スタンリーは持っていたそれを渡す。リビングの静寂を時計の秒針が刻む。水を飲み、細く息をついたの呼吸が温い空気に馴染むのを聞き届けて、スタンリーはテーブルの定位置に置かれた煙草の箱を掴んだ。
「んで まだ続いてんのか パニックアタックよ」
「え」
「エグリンであったろ 発作」
なんで、と言って咄嗟に視線を寄越したをスタンリーは何の驚きもなく見詰め返す。その金の睫毛がひどく優雅に揺れるのを、は一拍のあいだ碌に思考もできずに眺めた。
「響くかんね あの上司のバカでけえ笑い声」
「……」
はエグリンのフライトラインでの時間をできるだけ丁寧に思い返す。笑い声が彼の注意を引いたなら、その先の全てが見られていた可能性がある。無意識にペットボトルを握る指先が僅かに強まる。スタンリーが煙草の箱から一本を手にし、咥えかけて止める。
「………あれは予兆だけだった あれからは 一回も起きてないよ」
リビングにぽつりと落ちるのその声は、本人が意図するよりずっと小さく、キッチンで不意に鳴る食洗機の完了音にほとんど掻き消されていった。
「」
呼ばれた名前に素直に視線を戻すの頬へ、煙草を指の合間に挟んだままのスタンリーの手が伸びる。間接照明を受けて金星に似た煌めきを潜める瞳とほんのわずか向き合って、は一度だけ丁寧に降る口付けに目を伏せた。薄く、格納庫の先で見た二機の美しき戦闘機が瞼の裏に浮かぶ。しかしその先が続いて蘇るよりはやく、傍で、柔らかく艶めいて揺らがぬ声が響く。
「居もしねえ敵 想像してビビんな」
それは肌を重ねる夜のあいだ、恐怖に駆られるたびにいつも耳にする音によく似ていた。微かに細められる双眸が再びの意識をスタンリーへ結び直す。頬をなぞる親指の腹の、自身より少し高い体温がじわりと肌に滲んで溶ける。すぐに離れるそれを追って、火のつかない煙草の匂いが鼻先を掠めていく。懐かしい、と思って、ようやくはその匂いに久々に触れたことに気がついた。
entente
08.14.26