「やあ、おはよう」
「おはようゼノ」
4月中旬の春のうららかな光が差し込む会議室に、朝を彷彿とさせる珈琲の香りが漂う。の隣に腰を下ろしたゼノが、マグカップを片手に研究員らへ一瞥をくれると、そのうちの一人がモニターの端子を手繰り寄せた。
「では始めようか」
品の良い低音がテーブルに落ちる。資料をモニターに映した研究員がゼノに軽く頷いて口を開く。
「早速ですが前回の指示通り 保証下限を包装材のみで引き直しました 結論から言うと 歳出が目標の8割で止まります」
「妥当な数値だな 対策は」
「はい この不足分の対応案については…」
研究員が説明しながら半ば無意識にを見遣って、ほんの少しの間が生まれる。しかしはその空白にはまるで興味を示さず、ただモニターに映る資料をじっと眺めていた。それを愉しげに窺うゼノが、弧を描く口元をマグカップの縁で隠す。研究員の緊張気味の声音が一瞬停滞した会議を再び押し進めていく。
「包装材の発生量を設計側で増やします 現行の一食一袋を小分けの三袋構成にし、開封後の劣化を防ぎながら包装質量を1.6倍にする 下限が目標に届きます」
「おお確かに 残渣には一切触れず 先日の決定にも違反しないな 悪くない案に見えるね」
「それに 小分けは劣化の観点から宇宙食側にも利点があるはずです」
マグを置きがてらテーブルに片肘をつき手の甲に頬を預けて、どうかな、とゼノが声をかける。そのどこか無邪気な問いかけに応じ、は徐ろにモニターから目を離した。ゼノを経由してその双眸が研究員に渡る。そうして作られた笑みは見事な絵画の如く完璧に整っていた。
「却下」
「僕も却下だ」
二つの声が朝陽の降る会議室に冷たく響く。棄却を示した女に間髪容れずに続く丁寧に調律された美しい低音は、まるでその場の誰にも女の声に触れることを良しとしないかのように、その音を余韻に包んで溶かしていった。
「え でもさっき いえ…理由は何ですか?」
「Dr.ゼノ」
「おおそうだね ではおそらくは簡潔な側から」
そう言ってゼノが頬杖から身を起こす。大して光を反射しない黒曜石の瞳に捕まった途端、対面で座る研究員らが息を詰める。はその空気の中で、先日の自身の揺らぎを思い出してテーブルの上のアーモンドラテに手を伸ばした。蜂蜜とアーモンドミルクがいつもと変わらず微かに香る。
「そもそも炉が回収していいのは"どのみち積む質量"の副産物だけだ だが君は炉のために包装を増やした それはもう副産物ではない 調達だよ」
「しかしその質量は最終的に推進剤に還るので 差し引きはゼロです」
「それをわざわざ追加で積むのか おおそれならいっそ推進剤を積んだらいい 変換効率1で初日から使える」
ゼノの声は、大層耳触りの良い音に鋭利な言葉を載せ、誰の元にも朗々と響いた。テーブルに突き刺さるような声が部屋の温度を下げていく。は手にしたままだった熱めのラテを口に運ぶ。ゼノの言葉へ打ち返しあぐねる研究員を見る珍しさは、この敷地で観光客を見かける頻度に等しかった。
「その1.6倍の包装は変換効率分目減りした推進剤であり しかも使えるのは消費が済んだ航路後半のみだ つまり 君は推進剤より重く使いにくい推進剤を発明したというわけだな」
鼻先で乾いた嘲笑を鳴らすゼノが足を組んで首を傾げる。冬の寒さを彷彿とさせるアイスシルバーの髪が煌めいて揺れる。
「なぜわざわざ劣化させるんだい」
春めく陽光を受けてなお、室内は冷え、あげく緊張を孕んだ静寂の内圧でひどく息苦しい。はいつの間にか詰めた息を薄く逃がすと、もう話は済んだとばかりにラップトップのキーを打つゼノの横で、ラテのカップをテーブルに置いた。
「二つある 一つ目は三袋構成について これは3倍の開封作業と3倍の廃棄処理を毎食クルーに課す 宇宙で一番高い資源は?」
「…クルーのリソースです」
「使うにはそれなりのリターンが要るわよね」
「はい」
「で 次 リターンとして挙げていた …劣化の話」
僅かに生まれた沈黙を見逃さず、ゼノの双眸がを捉える。瞬きに隠れて落ちた視線に気付くそぶりもない様子を観察しながら、ゼノは以前受けたの電話を思い出した。
「開封後の劣化を防ぐ話ですか?」
「そう それ地上の話でしょ 深宇宙環境で検証した?」
「いえ 提案段階なのでまだそこまでは ただ 蓋然論で言えば大きくは外していないかと」
研究員がそこまで言うと、ついに会議室は再び沈黙に包まれた。議事録を取るタイピング音が数秒遅れて止まる。廊下をわたる金属カートの車輪音が壁越しにもはっきりとした輪郭で伝う。ゼノはが覗かせるその強かな獣性に薄らと口角を上げた。蓋然性にまつわるものは科学者としての彼女の信念を刺激する。
「さっきのあなたの計算 ”提案段階”って言いながら1.6倍の部分は丁寧だった でもこちら側の利点は蓋然論で組んで未検証で持ってきた あなたはそれ以上に手を伸ばせる環境にいて手段もあるのに なぜ使わないの?」
ゼノが新月の夜に似た睫毛を揺らして瞳を細める。研究員らはただ沈黙して微動だにしない。ゼノによって冷やされた空気が、乾いてさらに冷えていく。
「…すみません 軽率な越境でした」
「越境は別にいい 気にしてない でもこちら側に踏み込むなら踏み込んだ先の数字を取ってから来て わたしは前回 炉の腐食まで調べてからそちらの領域に踏み込んだ」
「持ち帰って改めて検討します」
「…以上かな?」
「はい」
「では今日はこれで」
その言葉を合図に、テーブルの反対側が一斉に手元を片付ける。そうして最後にモニターケーブルを元の位置に戻すと、研究員らはすでに次回までに何をすべきか考えあぐねているかの如く難しい顔をして会議室を出て行った。ほどけるような陽射しが乾いて人気の薄れた室内に注ぐ。ふとは自身のラップトップの右上に差し込み表示された通知に目をやった。それは数日前に送り直した喫食データ収集の運用計画に対する、よく見知った部隊長からの最後の承認メールだった。
「ゼノ」
「何かな」
先ほどの場の空気など寸毫も感じさせない飄々とした表情で、ゼノがいつもの通りにの呼びかけに応える。
「…そもそも歳出目標の8割で航路が組めない理由は何だっけ?」
「ああ 炉の単独目標が過大である可能性だな 化学推進側の予備との按分計算からになるね」
「発生量を増やす方向は全部死に筋よね この方向に進んでもどこにも行かない」
「同意見だ」
「……ならもう茶番じゃん」
「フフ 随分と辛辣だね いや 朝は機嫌が悪いのだったかな?」
窓の先から届く、池から飛び立つ鳥の鳴き声が遠ざかっていく。ラップトップを閉じて自身のマグを口元に運び、ゼノは隣から刺さる鋭利な視線に愉快そうに笑った。
「 僕は君のその極めて攻撃的な知性が大好きだよ」
「さすがに暴君ネロに褒められるのは複雑」
「名誉じゃあないか」
湯気も立たない珈琲を口に含んでゼノが悪戯げな声で返す。幾許かの秒針の音が会議室に響いたのち、春風が窓とライブオークの梢を鳴らして去っていく。ぼんやりとその様子を眺めてはラテのカップに手を伸ばし、スリーブ越しにもまだ熱いそれを握る。指先がじわりと温まる。
「…忙しいんじゃないのゼノ」
「ああ だが会議が早く終わったのでね 久々に先輩と親睦を深めている それに次の予定もこの会議室だ」
「………ほんと ああ言えばこう言う」
「…それはさておき 栽培系と貯蔵系の話はどうなったのかな」
不意に入れ替わった話題に思考が追いつかず、は一瞬すべての動きを止めた。ゼノの瞳が正確にその停止を見つめる。かち、かち、と秒針が均等に沈黙を刻む。
「…………どうって なにが?栽培系 載せるんでしょ」
「相変わらず実に素直だね 僕のきょうだいは 少しは暗号化を覚えたかとも思ったが」
薄く呼吸に潜む呆れまじりの笑みがやけに目立って響く。はそれに気付かないふりをして握っていたラテのカップを啜った。アーモンドの香ばしさと珈琲豆の焙煎香が空気に溶ける。
「ねえゼノ」
「何だい」
「今度泊まりに行っていい?」
「久々だね 構わないよ」
大した音もない会議室に柔く低い音が揺蕩う。温い沈黙が長閑な朝の光を受けて、ゆっくりと沈殿していく。何かを企んで笑うがゼノを見遣ると、かち合ったそのオブシディアンの双眸は春の光の粒を拾って、さながら時を忘れて眺める銀河のようだった。
「ついでにご飯も行こう」
「いつものパターンだな いつにしようか」
「んー 来月とか?あとでスケジュール見て送る」
廊下で突如生まれる笑い声にエレベータの到着音が重なる。ちらりと腕時計に目を落とし、がラップトップを閉じて立ち上がったところで、何の前触れもなく会議室のドアが開く。
「……」
「よう」
「やあスタン」
「おはようスタンリー」
「ああ」
軽く挨拶を済ませ、会議室に足を踏み入れるバターブロンドの軍人と入れ違いには会議室を後にした。ゼノが隣に腰掛ける男に意味深に目配せする。廊下で遠ざかるヒールの音が途絶え、エレベータのベルが鳴る。
「君たちはいつから仮面夫婦になったんだいスタン」
「んな状態じゃねえよ」
「そうか では先日僕に電話をかけてきた彼女が 二重化してる手段は劣後する側を落とすべきだ と論じていたのは僕との案件の話だったようだね」
「…へえ」
スタンリーは一拍の沈黙とともにゼノを見遣ったあと、トパーズの視線を窓の先へと投げた。春めいた景色を眺め、演習から帰宅した日に雷雨の中で聞いたの言葉を思い出す。もうその位置ごと降りたい。強い雨の中で掠れて迷子のように響いたその音にひとつ瞬きをする。金の睫毛が柔い光を弾いて揺れる。かつて真夏の夜に耳にした泣き声が、ひどく久しく記憶の底で蘇る。それは、先日の雷雨に滲む音によく似ていた。
「ま 新入りの啖呵にでも刺激されたんだろ」
「ほう 君と同じ職能の人間か それはまた随分とエレガントな皮肉だな そもそも君はスタンドアロン型だ」
揶揄を含んだ笑いとともに珈琲を口に運ぶゼノの視線が、会議のリマインド通知を表示したスマートフォンの画面に落ちる。スタンリーは静寂に身を浸したまま、ゼノの言葉に大して興味もなさそうにただ一度鼻を鳴らした。あのフライトラインの風向きで、歩行路に会話が届かないはずがない。あの時、至極普通の顔をして止めていた足を駐車場へと向けた女は、その後一度も喋りも笑いもしなかった。椅子に深く背を預けたままトパーズの双眸が薄く細められるのを横目に、ゼノが苦笑まじりの溜息をつく。
「思ったよりも根深いということかな かつての”お見合い問題”は」
「どうかね ビビってなんも見えてねえだけじゃんよ 実際さ」
スタンリーは微かに眉を顰めてそう言うと、ジーンズのポケットから煙草の箱を取り出した。エグリンで離陸する戦闘機を見て、すごい、と一言だけ小声で言ったという女は、かつて、飛び立つそれを見て泣いていた女だ。あの時と戦闘機は変わっていない。パイロットも、それを眺める人間も、天気でさえも違わなかった。窓の先の温んだ陽気に混じったゼノの呼吸とも相槌とも知れない音が滲む。スタンリーがちらりと腕時計を一瞥して徐ろに席を立つ。
「煙草」
「会議まで10分だというのにわざわざかい 見事だな 君の毒ガス吸引の習慣は」
「うるせえな」
「おお そういえばスタン 今度がうちに泊まりにくるそうだ あとで彼女からも共有があるだろう」
「”きょうだい”仲良くお泊まり会かい 問題ねえよ 寝不足にゃ気いつけんだな」
冷たい絹のような声の余韻に、不遜な嘲笑いが一つ混じる。スタンリーは手にした煙草の箱から一本を咥えると、口端を僅かに上げラップトップに視線を戻したゼノを後目に、もう一度小さく喉を鳴らして会議室を出て行った。
unsoundness
08.20.26