「大人…一名?」
「はい あ、マップは不要です」
「…本当に?いなくなったりしないでね」
「大丈夫です」
「今日はアリゲーターが多く見れるよ あとオジロジカも」
「そうなんだ ありがとう」
「……」

アーマンド・バイユー・ネイチャーセンターのウェルカムキャビンを抜けると、湿気に満ちた風が頬を撫でる。受付で向けられた訝しげとも気遣わしげともしれない視線を思い返して、は薄い笑いを混ぜた息を吐いた。平日、人気のない広大な自然保護区に、喪服姿の女が一人でやってくるなど、ほとんど前代未聞だろう。木製のボードウォークを歩き始めたはサングラスを外して胸元に挿し、ひとつ大きく呼吸する。デッキの左右から枝を伸ばす木々のおかげで、その遊歩道に注ぐ日差しは大分和らいでいた。静寂の中、耳の奥に残るタップスの余韻が葉擦れと水鳴りに溶けていく。今日見送ったのは糧食研究のかつての被験者だった。よく笑い、よく食べ、よく文句を言ってくるタイプだったことを覚えている。朧げな記憶を引っ張り出して、は眉根を寄せた。目につく全てが変わらずに日常を送り続けるのに、この世界のどこに行っても、もう二度と彼に会うことはない。

「……」

ばしゃりと大きく水面が揺れて、藻で覆われた水路へ視線をやると、アリゲーターが目だけを出してこちらを窺っていた。立ち止まってじっとそれを眺める。その静止の隙をついて、チャプレンの祈りが蘇る。死が与えられる場所に、自分が渡せるものは一つしかない。そしてそれは先日、自らの手で廃棄したものだった。鰐の鋭利な瞳孔が美しく煌めいて水に沈む。じわりと目頭に熱が滲んで、は泳ぎ去るアリゲーターから目を逸らした。どこまでも続く自然の中に、再び乾いた靴音が鳴る。微かに香る松に釣られて、エグリンで聞いた若いパイロットの声を思い返す。自分はあの時、果たして科学者だったのか、それとも、ただ一人の人間だったのか。タイトスカートのポケットに入れたスマートフォンが振動する。はデッキを歩きながらそれをただの習慣のひとつとして手にとって、大した確認もせずに応じた。

「よう」
「…………」

受話口から届くそのひどく簡素な一音で、ようやくは自分が通話を取ったことに気が付いた。

「スタンリー」
「今どこよ?」

日光で温められた土の匂いが漂って、毫も動かなかった星条旗がフラッシュバックする。軍人でいいのか、と問うたいつかの父の言葉がの意識を掠める。

「」

聞き慣れた声が鼓膜を撫でると、理由もなく、鼻腔の奥が熱を持って視界が霞む。

「……アーマンド・バイユー」
「ああ 演習場みてえにバカでけえ近所の公園か」

湿って重い風が吹き抜ける。あるはずもない硝煙の匂いを嗅いだ気がして、は軽く周囲を見回した。三度鳴った弔砲の割れんばかりの斉射が耳にこびりついて離れない。森の奥からやってくる一陣の松籟が完全に通り過ぎるまで、は忙しなく瞬きをするばかりで何の言葉も紡がなかった。ロブロリーパインとオークの木々の合間で、満開のマグノリアの白い花が揺れている。

「………もう家?」
「ああ」

例えばスタンリーがいつか帰らなかったとして。その可能性に自分が何らの対抗手段も持たないのなら、傍にいたところで出来るのは、他人が守ってくれるのを願ってただ待つことだけだ。美しい空に飛び立つ二機の戦闘機が脳裏をよぎる。合理的で正当性のある選択が何であるかは、すでに迷いようもないほど鮮やかだった。その事実を見つめるたび、形を持たない感情が真綿となって喉を締める。

「スタンリー」

遊歩道の端に辿り着いて、は順路通り未舗装の土の道へ進んだ。突如開けた視界の先に、どこまでも続く真っ白な大理石の墓標群を探しかけて立ち止まる。

「やっぱり わたしが信じてきた手段では 大事なものは何も 守れないのかも」

自虐の滲む笑みを浮かべ、は復元された農場にある大きなオークの下へ向かった。誰かの命にも、誰かの希望にも、自分自身の願いにさえ。今まで大切にしてきた道では結局、どこにも繋がらないのかもしれない。

「なんで泣いてる 」

足元で軽い水滴が跳ねて、初夏の木陰の下に沈む。

「大好きな”もしも話”おっ始めんのは勝手だが まだなんも失くしてねえだろお前は」

冷たい絹の手触りに似た声が聴覚の殆どを支配する。芝生の鮮やかな緑が濡れて太陽を鋭く弾く。

「座標 送りな」
「……来る必要」
「へえ 理由が要んのか 俺の女に会うのにさ」

乾いた嘲笑が静寂を散らす。睫毛の先から冷えた雫が滴る。葉擦れの波が押し寄せて頭上の青々とした葉を揺らすうちに、電話口の向こうで階段を降りる気配がする。

「……強引」
「いつまでもぐだぐだ考えんよかマシだね」

そう言い置いて、いつも通りにスタンリーは通話を切った。伏せていた顔を上げて、は胸元に挿していたサングラスをかける。それから道向かいにあるサトウキビ畑の緑波を眺めかけ、はたと手元のスマートフォンに意識を戻した。数度タップしてそれをスカートのポケットに滑り込ませると、近場の木陰のベンチに腰を下ろす。そうして何一つ静止しない目の前の風景をただ漫然と見送りながら、幾層にも重なる鳥の囀りと虫のすだきに長いこと耳を澄ませた。糧食が命を守れると言うのは驕りだ。今日見送った軍人も、恐らくいつも通り糧食を食べたうえで死んだ。精々、生存確率を押し上げる程度が限界であることは、疾うの昔から当たり前に分かっていた。ただ、たった一つの命を生還させたい、という分不相応な願いを、あの棺をあの場所から見なくて済むための抵抗を、自分が形にして渡すにはこの手段にかけるほかないだけだった。温い空気が土の香りを運ぶ。椅子から立ち上がって再び未舗装の順路へ戻ると、新緑の枝葉が作るトンネル道では徐ろに足を止めた。サングラスを外し、青々とした木立の合間に見える美しいオジロジカを見つめる。不意に一つ年下の神童を少しも守れなかったことを思い出しかけ、目の前の道に意識を逸らしたところで、風が一層強く吹き抜けていった。禁煙区域にそぐわない香りが薄らと混じる。

「……ここ 禁煙なんですけど」
「入ってからは吸ってねえよ」

陽光にバターブロンドの髪を瞬かせる男が、そう言って口角を上げる。それは久しぶりに聞く生きた人間の声のような気がした。

「」

幾度呼ばれたか知れない名前が新緑の道に余韻を残して、土を踏む歩みがそれに続く。サングラスを外しTシャツの胸元に挿したスタンリーの手が、の頬に触れる。自分より僅かに高い体温が肌をなぞって離れると、堪える間もなく堰を切っての双眸から涙が溢れた。癖で伸ばした手が躊躇なく掴まれて、いつもと変わらぬ強さと方法で握られる。

「スタンリー」
「聞いてる」

ぱたぱたと乾いた地面に雫が弾けては浸みる。数拍をかけて呼吸と思考を手繰り寄せたが、一つ大きく息を吸う。

「わたし スタンのこと 生還させたいって思ってた」
「知ってんよ」
「そのために 自分が持ってる手段を 使うつもりだった でも 食べても こうして人は死ぬ」

生かしたいと思っても叶わない、と涙に縁取られて揺れる言葉が風に掻き消されていく。は数ヶ月前に、満月を見ながら何も見届けられないと言ったことを思い出した。それでも何かできるはずだと諦めきれなかったのに、結局見届けたいものは何一つ見届けられず、こうして見たくないものばかり見届けている。生かすという目的の前に、一体自分はどれほどのことが、できたんだろう。

「エグリンで 隊長を殺させないのが仕事って 言ってる人がいて」
「ああ」
「資材破棄した日に 気付いたの あなたの隣で 直接命を守れる人もいるって それに比べたら」

松を渡る風に、マグノリアの芳しき大輪が微かに香る。感情に呑まれかけて無意識に強く掴んだスタンリーの手は、その力加減さえ変わらず揺らがない。

「わたしの手段は あまりにも 不確実で とおい」

嗚咽に紛れて木々の合間を漂う覚束ない声は、二人きりの森で何より孤独な響きをしていた。

「意味があると思ってた 役に立つとも思った でも言われた通りに棄てて クロージングのサインした 本省における価値は その程度だったから」
「……」
「………… 食べても死ぬものより 直接命を守るもののほうが スタンを生還させたいわたしにとっても ずっといい」

涙が落ちる音に重なる、乾いて自嘲に塗れたその笑いは長く余韻を残した。降り注ぐ木漏れ日が揺蕩うたびに喪服がじわりと熱を持つ。

「ごめん スタンリー」
「なにが」
「向き合うつもりだった でも やっぱり このまま隣にいるのは わたしには」

形になりかけた、できない、という言葉が湿って崩れる。無力さと抗い様のない現実がないまぜになって、絶対零度の冷たさで胸の内を焼く。抗ったところで自分の手段の有効性は変わらない。凍結も戻らない。目の前の命を望むように守ることもできない。それでも、見えている言葉は感情に呑まれて形にならない。

「資格が要んのか バッジでもあんのかよ 俺ん隣の席に座るにはよ」

喉の奥で生まれる嘲笑いが湿度の高い空気に乾いて響く。しばらくの沈黙を挟んで、の掠れた声が続く。

「…………あの日 駐車場で 確かに全部を賭ける約束だった」
「……」
「わたしの仕事の意義も 理想も 願いも 全部 最後はあなただった」

水分を含み朧げな輪郭で紡がれる言葉は容易く湿った空気に溶けていく。

「でも 賭け金が 尽きた だから」

全てがひとつに向けられることで、それが失われた時リスクを分散できない自分がどうなるのか恐ろしくて動けなかったことが、胸のうちに鮮やかに蘇る。それでも賭けると決めて、目の前の男がそれを受け取った。それからずっと、彼に応えようと思っていた。それが、自分なりに恐怖に抗う術でもあった。

「……もう わたしと スタンのことには なってない 傍にいる 意味が」
「ねえから降りるってか」

は小さく唇を噛んだ。スタンリーは手を離す気配のない女を捉えたまま、目の前で落ち続ける涙に耳を澄ませる。昔、非常階段で聴いた音が、今も記憶の奥にある。

「お前 随分と都合のいい計算してんね」

それは少しの温度も揺らぎもなく、まるでこの世界でたった一つ何者にも触れられないもののようだった。瞬きすら待たずの傍にだけ雨が降る。

「手段って言うがよ 最初っから糧食は生存の確率上げんだけじゃん お前が一番知ってんだろ」
「…わかってる」
「じゃあなんで今更ウィングマンと比較する 土俵が違え」
「……」
「俺を生かすかどうかが軸ならそれも違え ウィングマンの仕事は編隊を成立させて 撃たれる前に撃つことだ」

ざあざあと漣を打って重なり合う梢が鳴って、松とマグノリアの香りがありもしない硝煙と弔砲を体の中に連れてくる。

「“俺を生かす係”はどこにもいねえよ 俺の生存は 昔から俺の仕事だぜ」

はまともに効かない視界で、繋いだままの手を見つめた。湿地に向かう道の先を横切るオジロジカの蹄が木霊する。森の奥から鳥が一斉に飛び立ち、羽ばたきのあとを温い沈黙が包む。

「道具なら機能すりゃ何でもいい 軍隊なら必要な役が揃ってりゃそれでいい 糧食も食えりゃ味はどうでもいい」

スタンリーは静かにひとつ瞬きをする。

「俺の命は戦場で他人の腕前に預けて成立すんような ヤワな運用してねえんだよ」

冷たい嘲笑の滲む不遜な声が、木陰に漂う静寂を穿つ。それに咄嗟に顔を上げたの視線をスタンリーの瞳が捉える。夏木立の木漏れ日を受けて、その透き通った双眸の奥は煌々と燃え続けるベテルギウスのようだった。

「 お前が言う通り飯は命を守らねえ だから食ってそっから先は現場の仕事だ 食った後のことは俺がやる」
「………」
「俺とお前んことだろ これは ずっと前から」

スタンリーが目を眇めて僅かに眉根を寄せる。揺蕩う日差しが不規則にそれを照らす。

「そもそも式が違えのに いつまで一人でやろうとしてんだ」

見下ろすトパーズの瞳から視線を外す余力もなく、はただそれと見つめ合った。肌を伝う雫が冷えて喪服の胸元に溶ける。スタンリーがこの場所に辿り着いてから、感情を正しく収めることができない。繋いだ手が少しずつスタンリーの体温に馴染んでいくのを感じながら、はふと、エグリンでは常に隣に人がいたにも関わらず、自分がひどく孤独を感じていたことに気が付いた。

「スタンリー」

正しく呼んだはずの名前はほとんど形にならなかった。消え入る細さで呼ぶが強く手を掴むのを、スタンリーは一度小さく撫でる。

「誰だって死ぬときゃ死ぬ そのルールに例外はねえ 全員一律適用だ 残念ながらな」

聞き慣れた低い声が全ての音を遠ざけて、見つめる先でスタンリーが不敵に嘲笑う。

「だが それをどう持つかは自由だろ」
「………………」
「んで」

突如短く沈黙を割る目の前の男に、はぱちりと瞬きをした。スタンリーの言葉の後に何が続くのかを想定しきれていない様子のに、トパーズの双眸が意味深に細められる。

「お前が新入りの啖呵にも葬式にもビビってんのは分かったが 俺から離れたら何か解決すんのか それはよ」
「………」
「解決すんならいい だがしねえなら それはただの逃げだ」
「……」
「 もう一度聞くぜ 降りんのか ここで」

は一瞬その身を僅かに強張らせた。森に咲くモックオレンジの仄かな甘い香りが柔い風に乗って届く。視界の端で、ペチュニアの紫の花が揺れている。

「今決めんのはそれだけだ お前の価値でも仕事ん話でもねえよ」

スタンリーは少しも譲る気配を見せず、が言葉を探す沈黙の間もその頬を伝う涙をただじっと眺めた。はその眼差しを受けながら、再び喉に詰まる感情に顔を伏せる。目の前の男が言う通り、何か解決するかと言われれば、自分が彼の生還を望み続ける限りは何も解決しないだろう。手を離せば楽になるというのはただの願望で逃避だ。しかし逃げたいと思うほどに耐え難いのも事実だった。

「スタンリー」
「いんよ」

揺らぎも迷いもなくいつも通りに返される返答に、の小さな嗚咽が混じる。ずっと離すことのできない手も、頭では合理的で正しいと思うのに最後まで言えない言葉も、どちらも自分にとって同じほどに正解だった。耐えられないことから離れるのは生物にとって生存戦略上最も自然だ。一方でそれに抗うのも、生物が命を繋ぐ術として持つ生存本能のひとつだ。このまま手を離せば、いつか時がこの感情を緩和してくれるのは間違いなかった。しかしそれで楽になったとして、その時がくるまで、自分は一体何をして生きていくんだろうか。何のために楽になりたいんだろうか。かつて、逃げたっていい、よくやってる、と言った日本人の宇宙飛行士候補生を思い出す。今目の前にいる男は、それとは対照的に逃げを咎めながらも、ずっと自分の手を掴んでいる。いつまで一人でやろうとしてんだ、という言葉が脳裏をよぎって、は落ちる光の粒を眺めた。逃げたいほど耐え難い場所にいるが、しかしそこに立つ自分はまだ孤独ではない。それなら、ここで辞める前に、あと一歩進んでみることは、できるのではないか。

「……………まだ 離したくない」

命の賑やかさに囲まれた場所で、ほとんど独り言として呟かれた音すら拾うスタンリーが、呆れ混じりに笑う。

「んじゃ降りんのは無しじゃんよ まだ」
「……」

繋いでいた手を軽く引かれて顔を上げたの目線の先で、木漏れ日を弾く長い金の睫毛が揺れ、真っ直ぐに向けられる双眸が美しく煌めく。その光景から目を離せないまま、はふと、いつかの夜に、他の人間を好きになったらどうするか尋ねたことを思い出した。当時の射程には入らなかった問いが脳裏をよぎる。

「スタンリーは どうなの」
「何が」
「………今の わたし なにも ないけど……」
「 あん時駐車場で俺が引き受けたのは お前から成果物受け取ることじゃねえぜ」
「……」
「俺が死んだら生きらんねえって ガキみてえに泣いてた女の “全部”だよ」

落ちた雫に音もなく口角を上げると、スタンリーは緩く瞬きをした。3年前に防火扉の傍で聴いた、迷子のような泣き声を思い出す。あの日紡がれた彼女の信念も、一人で泣きじゃくったのち自分に全てを賭けると言った真冬の駐車場での選択も、真夜中の海辺で無力に抗った意思も、かつて幼馴染が撮った、戦闘機を見て泣いたその気概も、自分が知る限りいまだ消えたことは一度もなかった。

「俺の側に要んのは座標だけだ お前が持ってるもん手離さねえなら 行った先で寝てようが 科学やってようが 駄々こねて泣いてようが こっちにゃまるで関係ねえ」

いくつかの風が通り過ぎるまでの長い静寂を越えて、涙を拭うために手を離したが呼吸を整えながら小さく頷く。その様子を少しの間眺め、スタンリーがを呼んでバックポケットに突っ込んでいた水のペットボトルを投げて渡す。反射的にそれを受け取って何かを確認すると、は思わず掠れた音で笑った。

「帰んぜ いい加減腹減った」

ペットボトルの水を口に含んでキャップを閉めるを一瞥し、サングラスをかけ踵を返すスタンリーが癖でポケットに手を入れて煙草の箱を掴む。しかし箱が取り出されるより先に、の指先がそれを押し留めた。煩わしそうなトパーズの視線が降るのに素知らぬふりをして、サングラスをかけ直し来た道を戻る。バードウォッチングのために三脚を置いてレンズを覗き込む来園客を一人、二人と通り越して、はふと、来た時には気付かなかったのか、いなかったのか、と自身の記憶を遡った。

「………ねえ スタン」
「……」

陽を透かしたシェリーの瞳がサングラスの奥から覗く。

「…電話 返さなくてごめん こないだ…」
「いんねえよそれ 退っ引きなんねえ用がありゃ出るまで掛ける」
「…………あのとき ご飯食べてた ペンサコーラビーチで」
「へえ どうだった」

揶揄の気配を含んだ声が、いつもより緩やかな速度の二人分の足音に重なる。は梢を鳴らして吹き抜ける風によく似た潮騒を思い返す。

「……海 独りで見るの 嫌いなんだなって… 生まれて初めて気づいた」

その言葉にぱちりと瞬いて、スタンリーは鳥の囀りさえない静寂の中で大きく笑った。人気のない道に軽やかな笑いの余韻が広がる。

「海見てる暇あんのかよ お前 飯食い終わる前にレストラン追い出されんぜ」
「……」

サトウキビ畑のうねりを聴きながら、は横を歩く男に胡乱な視線を投げた。それを受け流すスタンリーが喉を鳴らしてもう一度笑う。バターブロンドの髪が陽光を湛えて煌めく。ボードウォークまで戻ると、ちょうどアリゲーターが倒木の上の日光浴から水中へ滑り落ちて水面に飛沫を上げた。耳の奥に染みついた嗚咽混じりの祈りが滲む。立ち止まったの横でスタンリーが同じように足を止める。

「……せっかく来たのに 全然見れなかったな」
「また来りゃいいだろ 近所じゃん」

波源から顔を出すアリゲーターを碌に見もせずスタンリーがの背を軽く押す。鼻先で生返事をして、素直にそれに従うが無意識のうちにスタンリーの手を握ると、それはの意識に上るより早く、視線の一つもないまま握り返された。受付のある建物のドアを潜った途端、空調の効いた涼しい空気が肺を満たす。がそっと息をつくと同時に、小一時間ぶりに見る受付カウンターの奥の姿が目を瞠って、部屋中に響き渡るほど盛大な長嘆息をついた。

「ああ良かった 本当に 帰ってこないんじゃないかと思った」
「問題ねえ 連れて帰んよ ちゃんとな」
「なんだ 彼氏だったのかい 君」
「ああ」
「お嬢さん二度とひとりで喪服で来ないで 最初から二人できてくれよ頼むから」
「大丈夫って言った…」
「誰が信じんだそれ お前 思っきし不審者だぜ」
「そうさ 変な人もみんな大丈夫しか言わないんだから 彼氏の言う通りだよ」








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08.28.26