寝室の青白い闇に、空調の稼働音が揺蕩っている。意識が浮上すると同時に、スタンリーは自身の腕の中にいる女を確認し時計を一瞥した。規則正しい寝息に反して、直接触れる肌から、急き立てられるように徐々に逸る拍動が伝う。ひとつ瞬きをして、抱き留めている腕に軽く力を入れ自分の体に密着させる。抱き込まれて身じろぐが体温を求めて自ら身を寄せるのを、スタンリーはそのトパーズの双眸でじっと見詰めた。アラート期間に入った数日前から、の睡眠は浅くなっていた。先日の葬儀の後、抱えていたものを開示して以来は徐々に日常に戻っていたものの、彼女の手札の状況が変わったわけではない。無意識下で残り続ける緊張と不安が身体反応として現れることは想定通りだった。小さく親指の腹で肌を撫で、落ち着き始める心拍に耳を澄ませる。腕の中の科学者がこの先どう解を出すのかは不明だが、恐怖に駆られて逃げるための理屈を外に探すのではなく、自身の内にある欲を掴んで向き合おうとしているのなら、あとは彼女自身の領域だ。そう思ったところで、スタンリーは吐息に微かな嘲笑を滲ませた。いつか彼女の出す答えが降りるだった時、果たして自分は同じことを思うだろうか。
「…寝な」
柔く冷たい絹のような声が静寂にぽつりと響く。掠れた余韻が寝室の暗闇に溶ける。スタンリーの腕の中でが言葉に抗って薄く目を開けたのは、そのすぐ後のことだった。スタンリーはに合わせて僅かに腕の力を緩める。目の前の女が寝ろと言って一度で素直に寝た試しはほとんどない。寝惚けて覚束ないの声が肌の上に落ちる。
「………いやな夢みた」
「へえ どんな」
「………………おぼえてない さっきみたのに…」
「夢なんざそんなもんだろ」
「…ねえ スタン いままでに わたしの死を」
寝惚けたまま素直に思考を言葉にしかけたが沈黙する。それは夜中に半覚醒した際には珍しいことだった。安定した速度で鳴る心拍が、まだ落ち着ききらない女のそれに混じる。
「ねえよ」
乾いた笑いがベッドの周囲に漂う静けさを割ると、は鼻先でひとつ溜息をついてスタンリーの首筋に顔をうずめた。冬の夜に民家から連れ出したことを思い返し、スタンリーは眠りに戻る気配のない女を改めて抱き込む。窓の向こうで梢が鳴って、カーテンに映る影が揺れる。生き延びようとすることを諦めたのも、傍にいる意味がないと諦めたのも、本質的には同じだ。一人で結論を出し完結するその癖に対して、自分を含めるよう要求したのは少なくとも今回が三度目だった。
「ホント クセの強え女」
鼻で嘲笑うと、が身を捩ってスタンリーに怪訝な視線を投げる。コンフォーターの布地がシーツと擦れる音がして、並ぶ二つの拍動がほとんど揃って身体に響く。
「…いわれたことない」
「誰に」
「…いままでの恋人」
「そもそも見せたことあんのかよ 俺が見てんのと同じもんをさ」
「……」
不遜な瞳を細めて喉を鳴らしたスタンリーに返す言葉を探しあぐねて、押し黙るが仄青い暗闇に空白を生む。落ち着いて揃っていたはずの心拍がずれていくのを捉え、スタンリーは空白に身を浸して口角を上げた。密着した肌から滲む体温が混じり合っていく。こうして直に触れ合うのは演習から帰還して以来これが初めてだった。
「……ねえスタン」
「寝な」
間髪を容れずスタンリーが短く言葉を投げると、一拍の沈黙ののちの微睡んだ笑いがスタンリーの首筋を撫でた。いつものように胸の上に置かれた手を見遣るトパーズの双眸が柔く細められる。ようやく寝る気配を見せたに、スタンリーが再び瞼を伏せたところで、静寂を散らしてサイドテーブルに置かれた端末が振動した。伏せたはずの瞼を開けて、空いた手で端末を掴む。の心臓が逸っていくのを身体で直接拾いながら、抱き留めていた手でその目元を覆って画面のロックを解除し確認する。ほんの数秒程度でそれを終えると、スタンリーは腕の中にいるの肌を一度だけ撫でて起き上がった。
「仕事だ」
大した感情もない低音の滑らかな余韻が彗星の如く尾を引く。クローゼットを開けて手早く衣類を身に纏っていくその身体をベッドの上から静かに眺めて、は自身の心拍に引き摺られそうになる意識の焦点を、無理やり今やるべきことへと向け直した。
「…エリントン?」
「ああ そっから飛ぶ」
「寝れないし 送ってこうか」
「いんねえ 寝て… いや そっちのがいい 車検時期だ 俺ん車」
「いつから?」
ベッドから降りて昨夜脱がされた服を着ながら振り返ると、スタンリーはすでに自身の着替えをほとんど済ませていた。無造作に掻き上げたバターブロンドの髪が仄かな光を含んで煌めく。
「明後日 前に作った委任状あんぜ そこの引き出しん中だ 身分証のコピーと保険証書もな」
「……」
その用意周到ぶりに寝起きの思考ですら絶句して、は着替える手を止めずに呆れた表情を向けた。ゲストルームに荷物を取りに行くついでにトパーズの双眸でそれを拾ったスタンリーが鼻で嘲笑う。
「やれっことはとっとと済ませとく性質なんでね」
はその声に薄い揶揄いを混ぜて、確かに、と短く独りごちた。着替えを済ませてスマートフォンを掴み、ひと足先に階下に向かった男を追って一気にガレージまで降りる。ガレージの扉近くに積んであるパッキングされたままの箱から水のボトルを一つ抜き出して、ははたと動きを止めた。
「鍵忘れた」
「持ってんよ」
そう言うや否や軽い金属音を鳴らして車の鍵が空を舞う。すとんと手元に落ちるそれを握って礼を言い、は運転席に乗り込んだ。ガレージを開けてドライブウェイに出、シャッターが閉まっていくのを確認し通りに出る。車が走り始めるとすぐに、スタンリーが煙草を咥えて助手席の窓を開けた。5月の新緑を香らせた夜風が窓から湿った空気を運んで、暗闇に灯るライターの火が揺れる。かちりという音とともに火が消え、白煙が窓の隙間から外界へと流れていく。閑散とした広い幅員の道路で信号に従って車を減速させて、はいつもなら流れているはずのラジオがない車内に気が付いた。葬儀に出た日から、ここはずっと無音だった。
「ラジオつける?」
開いた窓から紫煙が棚引いていく。煙草を咥えたままスタンリーが心底愉快そうに口端を上げる。
「つけたいなら好きにつけな 自分ん車で何の許可取ってんだ 初デート中かよ」
交差点先のガソリンスタンドが眩く浮かび上がっているのを見詰めるから、一拍遅れの短い笑いが溢れた。初デートが戦地に赴く男の見送りなんて堪ったもんじゃない。胸中でそう呟いてすぐ、は助手席に座る男との初デートがどんなだったか思い出せないどころか、どこからがデートだったのかすら分からないことに思い至った。5年前に知り合って以来、スタンリーは知らぬ間に日常に居座って、ずっと自分の世界に留まり続けている。それは随分と不思議な感覚だった。ドリンクホルダーに置いたミネラルウォーターを手にして口に含みながら、はじっとフロントガラスの向こうを眺める。スタンリーが慣れた手つきで携帯灰皿を取り出して灰を落とす。信号が変わり、水を元の位置に戻してアクセルを踏みながらは細く息を押し出した。ふと胸のうちによぎる、目を覚ました時に感じた逃げ場のない感覚が、微かに夢の輪郭を保っている。
「……。」
振動する端末に視線を落とし煙草を咥え直すスタンリーの口元で小さな火が明滅する。無音のまま流れる時間はいつもよりも随分と長く、そうしてもう二度と同じ時間がこないことをはっきりと自覚させた。自然保護区で聞いた、どう持つかは自由だろ、というスタンリーの言葉を反芻する。自由だ、と言われても、俺とお前のことだ、と言われても、あと一歩、と思っても、その解はまだ自分の中には見当たらなかった。それでもこうして世界の何もかもがいつも通りに回り続ける。人が戦場で死ぬことは教科書上の話ではないし、彼が例外のないルールと呼ぶ通り、死は決して計算式から外れることのない変数だ。そんな日常の中で、自分に一体何が、できるというんだ。モーニングヴェールの奥の酷く掠れた泣き声が意図せず脳裏に蘇る。目的地へ向けて走り続ける車の中で、ブラックホールの如く全容の知れないものが内側のすべてを飲み込んでいく。身体中を巡る血が一気に冷えるその感覚に、はステアリングホイールを無意識に強く握った。もし、今日見送る彼が最後に見る彼だとしたら。
「」
目線さえ添えず、真夜中に溶けるような温度の低い声が響く。
「お前 俺ん葬式 何回やったよ?」
たった一声に追いやられてすべての音が消える。は自身の心拍すら聞こえないその一瞬を、数度の瞬きで押しやった。窓ガラスの向こうで24時間営業のストリップモールの一部がぽつりぽつりと人工的な明かりを放っている。スタンリーは手にしていた端末の画面を消すと、何も言わない運転席の女に喉を鳴らして、咥えた煙草の合間から白煙を燻らせた。
「自分が動かせねえもん 熱心にシミュレーションしてどうする」
「分かってる 癖なの …科学者の」
はそう言って口を噤んだ。可能性に対し確率を計算し対応策を検討し制御下へ置こうとするのは科学者としての自身の性分だ。しかし同時に、それが動かせないものへ向いてしまうのは、今の自分の中にその可能性しか目を向けるものがないせいだった。スタンリーが軍人として戦場で全力を尽くす一方で、自分はその最も生かしたい相手を前に、ずっと持ってきた人を生還させたいという信念を前に、科学者として立てないでいる。二人で担うことにもなっていない現状が、空焚きの鍋のようにただ腹の底を焼いていた。
「んな暇なら帰ってきた時の飯のことでも考えてなよ」
掠れた笑いを包んで漂う煙草が仄かに香る。夜風の先でジェットエンジンが遠鳴りを引きずって空に上がっていく。テキサスの広大な平原を通る直線道路の先は、平坦な地平にどこまでも続く黒い空が圧しかかっていた。ちらりと助手席の男を見遣ったは、当たり前に自身の視線を拾うシェリーの瞳を一瞥すると、再びフロントガラスの向こうへと意識を戻した。窓の先に煙を逃して、スタンリーが吸い殻を携帯灰皿に押し込む。街灯を数本通り過ぎるまでのあいだ、車内には誰の言葉も生まれなかった。
「食べたいものあるの?」
「何でもいい」
「…言うと思った」
開いた窓から滑り込む温い風が蒸された草木の匂いを運ぶ。その奥に、仄かに燃料の香りが重なり始めていた。新しい一本を箱から取り出し咥えたままライターを手で弄んでいたスタンリーが、微かに笑いを滲ませて煙草に火を灯す。運転席から向けられるげんなりした視線を受け流し、スタンリーの乾いた艶を乗せる声が吐き出された白煙に溶ける。
「いつもお前の管轄だろ そっちはさ」
「………」
トパーズの双眸が細められるのを横目に、どう持つかは自由、という言葉が再び脳裏をよぎる。遠くに管制塔の明かりが見えて、は車のハンドルを切り、空港の敷地へ繋がる主要道路に入っていった。時間は自分の解を待ってはくれない。助手席に座る男は戦場に向かう。その変えられない現実を前に、死を恐れて送り出しても、根拠がないまま信じて送り出しても同じなら、信じていたい、とは思った。
「スタンリー」
呼ばれた名前に助手席の男の瞳が応える。民間航空会社のオフィスの明かりを浴びて格納庫の並ぶエリアへ差し掛かると、ヘッドライトに反射する警告標識が異質なほど鮮明に浮かび上がっては過ぎ去っていった。は数拍の沈黙ののち、無意識に噛んでいた唇を解く。この状態に納得も満足もしていない。胸の内にある何もかもも解消されていない。しかし、それらは現状のベストを尽くさない理由には、なり得なかった。まだ降りないと決めたなら、科学者としてできることはないが、一人の人間としてできることはある。戦場へ届けられるものはないが、帰ってきたら渡せるものはある。
「…………… あなたの分 お願いね」
「ああ きっちりやんぜ 仕事だかんな」
口端だけで笑うと、スタンリーは最後と言わんばかりに深く煙を肺に入れて、緩やかに減速する車の窓からそれを滑らせた。吸い殻を放り込んで携帯灰皿を仕舞い、窓を閉める。基地のアクセスゲートを照らす投光器が一際強い光を放ち、守衛所周辺に武装して立つ軍人らの影をくっきりと地面に映している。ゲートの少し手前で車が停まると同時に、車内は完全な静寂に満たされた。どくどくと忙しない心臓だけが耳奥で鳴り止まない。
「んじゃ 行ってくんよ」
「行ってらっしゃい」
スタンリーは足元に置いていた荷物を掴んで車を降りると、確認にやってくる警備兵に短く返して身分証を提示した。そうして、とっとと行け、と言わんばかりに振り返りもせずボンネットを数度叩いてゲートの先へ去って行く。それに応じては車を転回させ、今度は来た道をなぞって帰路に着いた。空港の敷地を出る頃、ようやく詰めていた呼吸に気が付いて深く息を吸う。あまりにもいつもと変わらぬ様子で車を降りて行った男の姿を思い返して、は僅かに窓を開け、重く落ち着かない心拍を携えたまま久しぶりにオーディオボタンに手を伸ばしラジオを点けた。
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09.01.26