「ゼノ ピザでよかったの?チーズバーガーでも良かったけど」
「構わないよ なにせチーズバーガーは昨日食べたのでね」
「ああそう…」
金曜の夕食どきにしては然程待たずに届いたデリバリーピザの温かい段ボールから、芳醇なチーズの香りが漂う。空中分解した言葉と共に投げられる白けた視線を口端の角度だけで受け流し、ゼノは取り皿をプレースホルダーの上に並べた。その合間にがテーブルに置かれたグラスのひとつに自身の持ち込んだシェリー酒を注いで、もう一方へは炭酸水を満たす。食器が奏でる音がダイニングに響き、柔らかな夕暮れの空気が温かい食事の周囲を漂う。
「…ほんとは行きたい店があったんだけどね」
「いつでも行けるじゃないか」
ゼノがほとんど関心も添えずにそう言って椅子に座ると、は一瞬沈黙したのち薄く笑ってゼノの向かいの席に腰を下ろした。外食をするつもりだったのを、なんとなく家にいたいからという極めて曖昧な理由でデリバリーにしようと提案したのは自分だった。
「」
「なに?」
「随分と疲れているようだね」
「色々あって」
「スタンリーとかい」
「………… いや 自分」
温く長い間を置いて続く言葉に、丁寧に調律された低い笑いが滲む。プレーンのピザの一切れを掬って、チーズが落ちないよう端を持ち上げて口に運ぶゼノを眺め、はシェリー酒のグラスを傾けた。琥珀色の液体からナッツと乾いた木が香って、どこか焼きたてのパンに似た後味が舌先を通り過ぎていく合間に、ぼんやりと数日前に作戦に赴いたバターブロンドの髪の男のことを考える。口に含んだピザを咀嚼し終えたゼノの視線に意識を戻すと、久々に完全なプライベートで会うゼノのオブシディアンの双眸は、大した温度もないようでいて、対象をつぶさに観察しているようだった。
「実は もう全部やめたいって」
ダイニングの暖色の光を弾いて、丁寧に熟成されたシェリーがグラスの中で美しく煌めく。
「…思ってた」
「それは 穏やかではないな」
掴んだピザの三分の二をふた口目で綺麗に片付け、ゼノは胡乱な表情を向けるに口角を上げて小首を傾げた。グラスの中で炭酸水の泡が小さな破裂音を立てる。
「おお 誰に言われずともこの程度の推論は十二分に可能だよ 君の最近の様子を観察していればね」
「……」
答え合わせすら要求しない確信に満ちた態度で言うゼノを前にして、は沈黙に目的を与えようとピザボックスから一切れを掴んだ。縦半分に折ったのち端を齧ると、テーブルの向かいの男が興味深そうにそれを眺める。口の中に満ちる溶けたチーズと芳ばしいパン生地の食感を丁寧に味わいながら、はいつかの真夜中に食べたケサディーヤを思い出した。
「それで」
ゼノは短く区切ったのちグラスから炭酸水を喉に流し込むと、テーブルにそれを置き、頬杖をつく。
「全部やめて 今度こそお見合いでもするつもりだったのかな?」
「……それ一生擦るじゃん…」
頬杖の上で黒曜石の瞳が嘲笑う。換気のために細く開いている窓から一陣の風が吹き抜ける。は恨めしげにゼノを見遣って、かつてレストランでその問いをかけられた時のことを胸中で反芻した。そこそこ気が合って楽しい家庭を築けそうな、持続可能性の高い相手と結婚するのが最も現実的で蓋然的だ、という回答が大した重さもなく記憶の底から浮かび上がる。
「………ねえゼノ」
「何だい」
「…”そこそこの”幸せって 存在すると思う?」
「随分と哲学的な問いだな 比較対象が何かに依るんじゃあないか」
「まあ… それはそう」
どこかの玄関先でウィンドチャームの鈴鳴りが溢れ、グラスの触れ合う音に混じって品の良い音楽が鳴っている。は手にしたピザを再び口に含むと、その視線を窓の外へと向けた。インディゴに染まりゆく空は、いまだ地平線付近に仄かにオレンジとピンクを留めている。
「ヒステリシス現象と同じようなものだろう 一度強い磁界をかけて飽和磁化させた物質は 二度と消磁しない その状態では”そこそこの”磁界を加えても何の変化も起こらない つまり」
「比較対象が幸福同士なら存在し得ない?」
「”そこそこ”が最大値ならそれは最大の幸福だ 逆に最大の幸福があった上でなら ”そこそこ”はもはや幸せにすら感じないだろうね」
「………」
「そして 僕の観測結果では 君はすでに飽和磁化済みに見えるよ」
ピザのクリスプを齧りかけて、はゼノの言葉に思わず呼吸混じりの笑いを落とした。口端を僅かに上げるゼノの深宇宙色の睫毛が瞬きで撓む。頬杖を解き箱からピザを掴んで口に運ぶ目の前の男を見遣って、改めてクリスプを齧る。そこそこの幸せはもはや幸せの体感を持たない、と言うために、物性自体に不可逆の変化が起きている物理現象の例えを持ち出す自身の後輩に、もう一度鼻先で薄く笑う。そうしては咀嚼を終えると、残るシェリーを飲み切り、ボトルを掴んで琥珀色の液体を注いだ。
「絶好調じゃん わたしの後輩は」
「僕の先輩の期待に沿えたようで何よりだ」
柔く煌めく悪戯げな瞳を一瞥し、はグラスに満たしたばかりのシェリーを口元に運ぶ。静かの海の如く伽藍堂として動かない静寂へ、外からやってくる見知らぬ談笑が流れ込む。テーブルにグラスが触れる乾いた音が響いて、喉に残るアルコールとは違う刺激が、微かに鼻腔の奥に生まれてすぐに風に冷やされていった。
「ねえ ゼノ」
「何かな」
「これは 後輩として 聞いてほしいんだけど」
「ああ」
「科学者としての限界かもなって ちょっと 思ってる」
「ほう 僕の観測と一致しないな 炉の開発チームにあれだけのものを突きつけていたのにか」
「………最近 自分の科学は確実性も有効性も低いって 改めて実感して」
外から薄く漂う曲にさえ紛れる程度のの声が落ちる。ピザの箱から新しい一切れを手に取り、余韻の居心地の悪さを誤魔化すようにはそれをひと齧りした。咀嚼する間、ダイニングに温かくも冷たくもない一秒が積み上がっていく。
「それなら糧食を捨てたらどうだい」
不意に静寂を染める落ち着いて美しい低音が、何らの感情も読めない響きで心臓を撫でた。
「 元々君はNASAの宇宙食の研究者だ 糧食は副次的に君の科学を活かすだろうが 科学が何を成し得るか理解もせず帳簿の都合で研究を殺す愚者達に振り回されて何になる」
「ゼノ」
「科学が本来の力を発揮するには そのエレガントな価値を正しく理解する人間が必要だろう」
マジックアワーが終わり、空に夜の帳が下りる。湖の先へ向かうヨットのスクリュー音がゆっくりと遠退いていく。向き合った男のオブシディアンの瞳は、宇宙と同じ数ケルビンの温度しかないようだった。はエグリンの格納庫で見た姿とフライトラインで聞いた声を記憶の中でなぞる。それを追いかけて脳裏に眩い大理石の墓石群が蘇る。自分がやってきたことの価値がどこにあるのか、あんなに分からなくなったことは今までに一度もなかった。視線を落として視界に入った手を見つめ、ずっとその手を離さなかった人間の体温を思い出す。
「………… そんな簡単に 捨てられない」
それはほとんど無意識のうちに形になった。はひとつ瞬きをして、手にしたまま忘れかけていたピザの端を口に運ぶ。やや冷えて弾力を増したチーズの芳醇さが口の中を満たしていく。
「何故?」
「…やれること まだあるかも しれないじゃん」
「矛盾だな ないから限界を感じているんじゃあないのか」
「……」
「スタンのことなら心配しなくとも 彼自身の能力と今あるものだけで賄える 彼は18で入隊し今や特殊作戦部隊の隊長だ 叩き上げの優秀な軍人だよ それにあの銃の腕前もある」
ゼノは太陽が東から昇ることを示す程度の興味の薄さでそう言って、食べかけていたピザの最後の一欠片を口に放り込んだ。返事もせず、沈黙を守ったまま食事を続ける目の前の女に改めて目を向ける。電話口で、実質的な撤退を申し出ていた状態には釘を刺した。その上で、自分にとって重要な案件に必要な知性と科学を提供している限りは、腹の中で何を考えていようが、彼女自身が開示しないなら関与するつもりはなかった。しかし、功を奏していた研究を帳簿で殺した連中の下に留まり、保険と呼ばれるデータ収集に科学者としての貴重な時間を費やしながら、それでもその場所を離れようとしないのは到底理解し難い。
「 僕ら科学者にやれることは山ほどあるよ しかしやるべきことがあるだろう 合理的に考えたら分かると思うが」
紙ナプキンで手を拭いて、グラスを掴むゼノがその黒曜石の双眸を眇めた。は逸らしていた視線をそっとゼノに戻す。大して光を受けない漆黒を湛えるそれは、まるで底の知れない事象の地平線の内側だった。窓の先から夜風と軽やかな音楽がやってくる。低く穏やかな音が、美術品に似た品格を持って空間を支配する。
「僕の側でなら君の科学は美しく生きる」
は口を噤んだままただじっと目の前の男を眺めた。科学者としては思想も倫理も相容れず、互いの利害が一致しなければ徹底的に争うことも厭わないほど容赦のない天敵にもなる関係なのに、その声はひとつも疑う余地のないほど真摯な響きをしていた。元々、自分と彼の理想自体は違わない。人類が前に進むことを願い、そのために科学の発展を目指している。
「…そうかもね」
「おお それにしては まるで気のない返事だね」
ゼノが鼻先で薄く笑う。そうして手にしていたグラスを傾けるあいだ、ダイニングには外から紛れ込む場違いなほど長閑な笑いと音楽の気配だけが漂っていた。はゼノの笑いに釣られるように微かに口角を上げる。彼が捨てたものを持っていたい、という昔の自分の泣き声が、意識の無視できない場所にある。
「1号と2号はミッションが違うじゃん」
その言葉を受けて落ちる瞬きが、音もなく黒の睫毛を揺らした。テーブルに戻されるグラスの中で透明な液体が小さな泡を弾いている。葉擦れと初夏の夜の庭先の談笑が豊かな静寂で秒針の間を埋めていく。軽やかな音で注がれる水がグラスを満たすまでの間、ダイニングテーブルの上にはそれに向けられる二つの視線だけが留まり続けた。
「だが それならどうするんだい 解はないままだ」
「………分からない もう少し 考える」
「そうか」
ゼノは目の前で冷めたピザを齧っているを見つめながら、ひとつ大きく溜息を落とし頬杖をついた。それは室内に漂う他所の音楽と空気によく馴染む長閑で柔いものだった。
「ところで 君のボイジャーの喩えだが スピリットとオポチュニティでも構わないよ」
「それはどっちがスピリットかで血を見る争いになりそうだから却下」
「まあ今の状況を見れば君だろうな」
「却下って言ったよ ゼノくん??」
allotropy
09.16.26