「何か飲むかい」
「うん」

シャワーを浴び、ラップトップを掴んでリビングに戻ると、先に自室で入浴を済ませていたゼノがタイピングをやめてソファから立ち上がった。は荷物をソファに置き、キッチンに向かう背の高いアイスシルバーの髪の男の後ろをついていきながら、夕食時の会話をぼんやりと反芻する。糧食を捨てたらどうだい、と言った冷たくも美しい音に、ここ最近目にした光景が浮かんでは消えていく。NASAにおける宇宙食と緊急時の食糧供給に限れば何もかもが楽になることは間違いない。自分の専門領域が極限環境での死と隣り合わせであることは変わらないが、それが届かない無力感も、生かせない苦しみも、政治や権力や慣例に振り回されることも、ゼノの言う通りに減るだろう。微動だにしない星条旗が脳裏をよぎり、若いパイロットの声と格納庫から見えた二人の姿を想起しかけて、はひとつ瞬きをした。エグリンでの出来事を思い返そうとすると、それに紐づいたスタンリーとの会話と数日前に重ねた肌の温度の記憶が邪魔をする。ほとんど毎日耳にする冷たい絹のような声が、一番身近な体温が、自分の五感に最も深く根付いている。

「珈琲でいいかな」
「なんでも大丈夫」

自分の回答に呆れた視線を寄越したゼノへ短い笑いを溢して、はキッチンカウンターの椅子に腰を下ろした。ゼノが戸棚から珈琲豆を手に取り、エスプレッソマシンのホッパーの蓋を開けて豆を補充する。蓋を閉じ戸棚に豆を戻すついでにカラフェを掴むと、それをワークトップに置いて冷蔵庫を開け、取り出したミルクを注いだ。カラフェとマグカップをセットし、ボタンを押す。豆を挽く聞き慣れた音が、ミルクを戻して閉める冷蔵庫の軽い音を覆い隠した。

「ねえゼノ」
「何だい」

カウンターの向こうから氷の入った二つのグラスにミネラルウォーターを注ぐ。そのうちのひとつをの前へ差し出すと、ゼノは自身の分を持ってキッチンのカップボードに徐ろに寄りかかった。

「この間の会議で 研究員がさ 三袋構成にすれば開封後の劣化を防ぐって言ってたの覚えてる」
「ああ 深宇宙環境で試したのか、と 君が焼き払った蓋然論の案だね」

状況を思い出したゼノの口角が上がる。が返事の代わりに鼻先で息をついて、手元に置かれたグラスを口に運ぶ。

「実はあれ 同じ問いがわたしにも刺さるの」
「ほう それなのに燃やしたのか あの研究員の提案を」
「それはさすがに愚問でしょ ゼノ あの提案が未検証なのは事実だし その事実はわたしの状況とは関係ない」

何の躊躇もないその言葉に、ゼノはひどく満足げにそのオブシディアンの双眸を細めた。手にしたグラスの中で氷が軽やかな音を奏でる。

「そうだな」
「……」
「それで 君の未検証の問いは何かな?」
「火星ミッションに必要な 宇宙食の保存期間」
「劣化速度か」
「そう 5年保存の根拠について」

会話の背後で抽出完了を告げる音が鳴って、ゼノが出来上がったマグカップを掴んでの前へ置く。礼を言うに軽く相槌を打ち、マシンの抽出口へコーヒーカップをセットすると、今度はエスプレッソのボタンを押した。再び豆を挽く音がキッチンに満ちる。

「いまはその根拠を加速試験の外挿で出してる 温度と湿度を振って劣化速度を測って それを実時間に引き伸ばしてね 地上の食品ならこれで通るんだけど」
「銀河宇宙線の連続被曝下でならどうなる」
「それなのよね 深宇宙で高分子のバリア層がどう劣化するか 分からない というのが限界 温度は加速できても放射線は別の軸だから そもそもこの加速試験の外挿の範疇にない」

湯気の立つラテを啜って、は溜息をついた。抽出されるエスプレッソに視線を預け、数拍のあいだ漫然と沈黙する。ゼノはカップボードへ寄りかかったままグラスの水を飲み、その沈黙に静かに身を任せた。珈琲の香りに満ちた夜のしじまは、温かくも寒くもなく、風呂上がりの肌に柔らかく馴染む。不意に孤独と断罪の響きを纏うの声がぽつりと落ちて、キッチンの全ての静寂を飲み込んだ。

「完全な環境の再現は火星に行くまでどこにも存在しない とはいえ5年の数字を実時間の実証も 妥当なスコープの試験もその外挿もなしで積むことになるのは 許容できない」
「当然だな」

再び鳴る完了音に、ゼノがその身を起こしてカウンターへグラスを置き、マシンからカラフェを外す。それをシンクで軽く濯ぐと、そのまま食洗機へ入れた。抽出口からカップを取ってカウンターの外側へ回り、椅子へ腰を下ろす。エスプレッソを一口含んで、それで、とカップを置きがてら言うゼノの黒曜石の双眸が、無造作に掻き上げられたアイスシルバーの髪の下でを捉えた。

「どこまで組んだんだい 君のことだ そこで止まっているということはないだろう?」
「…… 二段構えでやるつもり まず地上のガンマ線照射で吸収線量を先に当てる で 低軌道の材料曝露実験に相乗りしてサンプルを宇宙側に出す」
「なるほど 至極真っ当な案だね」
「ただ低軌道は地磁気に守られてて線質が違うでしょ そうなると結局問題は解決しない でもここから先はもう 専門外」

カウンターへ肘をつき、人差し指をこめかみに添えての言葉を聞いていたゼノが僅かに沈黙したのち薄く笑う。

「大丈夫 そこから先は 僕の守備範囲だ」

低く落ち着いた声が、キッチンの静寂に柔らかい余韻を残す。はその声を瞬き一つで受けながら、手にしたマグを口に運んだ。

「 完全な再現とならない君のその二段の案は正しいよ この問題において科学にできるのは 等価性の精度を上げることだけだ つまり低軌道での線質の差は 重粒子の寄与率で補正してやればいい」
「…ああ 線量じゃなくて内訳で合わせるってことか 低軌道で足りない重粒子の分だけ地上で上乗せすればいいんだ …いやでもそれ 撃てる設備ないじゃん」
「ブルックヘブンに重イオンのビームラインがあるだろう」
「宇宙放射線研究所?あれ確か医学生物用でしょ それに…」
「医学生物用だが材料も撃てるよ そして君の心配が窓口ならば 心当たりがある」
「………ちょっと それ先に言ってよ」
「おおすまない 聞かれなかったのでね」

まるで悪戯盛りの子供のようにしたり顔で笑うゼノに、げんなりして視線をぐるりと回すがその仕草だけで惜しみなく感情を表現する。重ねてあからさまに落とされる溜息が、キッチンに溢れる柔く低い笑い声に混じって珈琲の香りに溶けていった。

「窓口 つないでくれない?ゼノ」
「もちろん構わないよ ただしひとつ条件がある」
「え 何」
「実は僕も今 厄介な数字を抱えていてね」

細められるオブシディアンの瞳が、キッチンの間接照明を受けて光の粒を弾く。何が潜んでいるか分からない未知の星にも似たその煌めきから一度逃れて、はラテを喉に流し込んだ。火星有人探査の案件に組み込まれた時のことが意識を掠める。極めて薄く息をつくの横でゼノがエスプレッソのカップを傾ける。

「…何の数字」
「灰だ」
「灰? ……ああ ガス化率の残り分?」
「そう 微小重力では掃き出すことすら一仕事で 輸送中は捨て場もない だがどう条件を振っても炉の底に数パーセントの無機残渣が残る」
「そもそも捨てる気ないでしょ その顔」
「無論だ 焼却灰を養液の原料にできることは90年代の生物再生系の研究で既に確かめられている 灰だけでは釣り合わないが 不足分を足せば結果は対照区と変わらなかった」
「栽培側には?」
「一昨日投げてある 試験炉の灰の分析値を添えてね 返事待ちだ」
「…」
「尤も 回答の予想はつくがね 水に溶けて出るのはほぼカリウムとナトリウム リンはカルシウムと組んで灰に残る 厄介なのはナトリウムだ 循環養液に溜まり続ける 許容量次第では灰ごと使えない」

残念ながらね、と頬杖をついて横で思考を続けるゼノを、は同じように頬杖の上でじっと眺めた。深夜の静寂が窓の外の音に揺られ揺蕩う。空調の稼働音が途切れることなく空気の底を流れていく。何も言わないゼノの黒曜石の双眸を見つめたままふと、は宇宙の地平線の彼方という領域を知った時のことを思い出した。宇宙の膨張に伴って光が地球へ永久に届かず、原理的に決して観測できない場所があることに、幼い頃の自分は圧倒されると同時に苛立っていた。その苛立ちと畏怖が、星への憧れと共に原初の火の一部となって、今こうしてここにいる。原理で決して届かないことが決まっていても、届く限界まで手を伸ばそうとすることは可能だと思っていた。試す前に諦めることが苦手な子供だった。君が自分から領土を返すとは、と横に座る男に言われたペンサコーラビーチの通話が脳裏をよぎって、は小さく乾いた笑いを溢した。

「……ねえ その試験炉 何燃やしたの」
「標準の模擬廃棄物だよ 現行の廃棄物モデルから組成を起こしたものだ」
「現行って ステーションのじゃん」
「ああ」
「ゼノ」

名を呼ぶの声にすぐに視線を寄越すゼノが漆黒の睫毛を揺らして瞬きをする。

「このミッション用の宇宙食は 今わたしが全部引き直してる最中でしょ あなたが返却を拒んだ設計権を 全て握ったままね」

諦念まじりにそう言ってゼノから窓の外へ意識を移すの様子を見遣る、オブシディアンの瞳が愉悦の気配に満ちる。那由他の星を携える銀河を閉じ込めたその双眸が、に倣って窓の先へ向く。

「…フフ」
「メニューが変われば 残渣のミネラルも当然変わる 栽培側が判定の軸にするナトリウムとカリウムの比はそこで動くから 回答が来ても別の灰の話になってて結局使えない」
「ならば君の新しいメニューで試験炉を回し直すべきか」
「燃やさなくていいよ 成分表から逆算できるから」
「ほう 成分表から?」
「そうだよ 食品科学では灰分は捨てる数字じゃなくて測る数字 成分表のミネラルの行あるでしょ あれ 灰化分析で量るのがこっちの御家芸」

は面白そうにゼノを一瞥し、ラテを啜った。温められた牛乳の円やかな甘みと深煎りの珈琲豆の苦味が舌先を滑って喉を温める。

「メニューごとのナトリウムとカリウムの数字はもう手元にあるから 残渣の分布を掛ければ灰の組成の幅が出る」
「僕は灰を廃棄物の廃棄物として見ていたが 君の側にはその設計図が最初からあったわけか …おお なんとエレガントな解だろう」
「ただし前も言ったけど定数は無理だからね あくまで幅は出せるってだけ しかも使えるかどうかは栽培側の化学の領域」
「それだけあれば先に進むには十分だ」
「…… 栄養面の要件は削れない でも化合の形はもしかしたら設計の余地があるかもね 分からないけど まあ何にせよ今ないからって」

束の間視線を落として思案しながら、は紡ぎかけた言葉を完成させる前に完全に口を噤んだ。かつて晩夏のエリントンフィールドで、特殊部隊員らと行ったプロトタイプテストを思い返す。まるで案件の凍結から続いた日常が感情を差し引いていったかのように、記憶に上る感覚はどれもひどく懐かしかった。今完璧を作れなくても、やれる方法を探すことは無限にできると当時の自分は彼らに答えたはずだ。糧食部との共同開発での2%の達成も含め、今までも、今ないものを作ろうとしてきた。科学者は形を見つけ、”手段を作る者”だ。それが境界を外へ押し広げることになり、専門家として一つ仕事をしたことになる。理想に対し、完璧にならないことが、足を止める理由になったことは過去一度もなかった。それなら停滞は凍結でも、保険として渡されたデータ収集業務でもなく、自分だったんじゃないか。

「絶好調だな 僕の先輩は」

頬杖をついたままのゼノの空いた手が、の目元に触れて離れる。

「………科学って こういうものでしょ」
「その通り 僕たちが持つのは実に美しい エレガントな力だよ」

丁寧に調律された低音が夜半のキッチンに溶ける。ゼノは口端を緩く上げたまま、そっと冷えたエスプレッソを喉に流し込んだ。知らぬ間に滲んだ視界を瞬きで均して、は結露したグラスを手にして口をつける。いつまで一人でやろうとしてんだ、という僅かに不機嫌の滲む低く揺らがぬ声を追って、ずっと前から俺とお前のことだろ、と言った男の美しいベテルギウスのような瞳が記憶の中で鮮やかに蘇る。ずっと前から。は冷たい水を味わいながらひとつ瞬きをした。スタンリーとの出会いのきっかけは糧食への忌憚ない意見の要求だった。あの日自然公園で聞いた、引き受けたのは成果物じゃない、というスタンリーの言葉は、そもそもどこまでを範疇にしたものだったんだろうか。

「………ゼノ」
「何だい」
「やっぱり 糧食捨てられない」
「何故」
「まだ使えるもの 使ってなかった」
「……ほう 何かな 君がまだ使っていないものとは」
「”スタンリー・スナイダー”」
「 僕の記憶が正しければ 彼のリソースは君が20歳の頃から使っているだろう」
「使いかた間違ってた わたし スタンを最後に置いてたけど 最初だった」

は言葉を返しつつグラスをカウンターに置いて徐ろに席を立ち、リビングに向かった。要領を得ない回答にしばし動きを止めたゼノが、数拍のあいだの背を眺め、二つのカップを持ってカウンターの席を立つ。

「保険として渡された喫食データ収集の評価票の様式を変える 各部隊の承認はすでに現行様式で取っちゃってるけど修正する」
「それがスタンの”使いかた”と関係するのかい」
「…スタンリーってさ 評価票の書き込みが異常なの 多分彼が19歳の頃からわたしに付き合って評価やってるせいで」
「……」

ソファに座ったがラップトップを開いて画面のロックを解除する。開いたまま最小化していた電子化した評価票を最前面に出し直して、フォルダから同じ被験者の評価票を追加で開く。試作を繰り返した研究開発でも、度重なる過去の実地テストでも、喫食データの収集でも、スタンリーの評価票への書き込みは大抵欄外にまで散らばっている。そして欄外に書かれているのは全て、9段階で感想を採点する現行様式では拾えない、運用時の制約と喫食時の条件、それから喫食時に起きたことだった。ゼノがリビングテーブルにカップを二つ置き、横に腰掛ける。見慣れた筆跡を見つめていたが、束の間モニターから目を逸らす。鼻腔の奥が熱を帯びて瞳が潤む。この評価票も、使えるものは全部使えという約束も、その時できるベストを尽くすだけという言葉も、ずっと自分の手元にあったものだ。スタンリーが現場から渡し続けてきたものを、自分はもう先がないと諦めて一人で手放そうとしていた。

「…”スタンリーが欄外に書かなくて済むように”四半期ごとの評価票の様式を改定して制度化する それで全員分の精度が揃う データの価値も上がる」
「そうか スタンが最初とは 彼が起点となるということか」
「そう スタンに届くか否かじゃなくて ……スタンリーが隣にいるから できることがある」
「……」
「それがいつか 再開する研究開発に活きて仕様が規格化されれば 一気に全員に渡る 海だろうが陸だろうが空だろうが特殊作戦だろうが その先何年もね そして届けば 現行よりも生存可能性の押し上げが強まる」
「あくまで彼ら側の 年に一度の承認機関の審査会議に通ればだろう 尤も 彼らが科学の美しさを理解するとは 思えないがね」
「……まあ実際 細すぎる糸だけど… それにスタンリーには ゼノが言う通り要らないかもしれない そもそも規格化されるのは彼の引退後かも でもこれが …今やれることだから」

それは随分と小さな声量で、迷子に似た心細さを持ちながら、どこか孤軍のようでもあった。ゼノはただ静かに瞳を細めてを見遣る。は再びモニターの評価票に目を落として現行の項目を確認し、軽いメモを書き残すと、そっとラップトップを閉じた。

「わたしとわたしの科学にしかできないことなら…それをやる意味はあるでしょ …科学者として」
「なるほど それが君の解ということか …おおもう少し かかるかと思っていたが 存外早かったな」
「これが正解かは 分からないけどね」
「構わないさ 不正解なら僕の側へ来ればいい」

掴み所のない嘲笑いを浮かべるゼノを胡乱な表情で見遣って、はテーブルからマグを手に取る。そうして冷えて大した香りもないラテの残りを飲み干した。

「ところで さっき君は スタンの評価票の精度を君の糧食評価に付き合ってきたからだろうと推論していたが」
「うん」
「それは癖ではない その書き込みは スタンリーが能動的に選択している行動だ 彼はそういう男だよ」

リビングに温い静寂が満ちる。はぱちりと瞬きをしてその視線を傍らに座る男へと向けた。ゼノは鼻先で柔く溜息をつき、僅かな口端の角度で返すばかりで何も言わない。随分と潤んで遠い星に似た光を湛えるの瞳が沈黙の中で落ち着きを取り戻していくのを、オブシディアンの双眸だけが静かに眺めた。

「…それにしても スタンリーを手段にして 一人でやるより遠くに行く 実に見事なスイングバイのようじゃあないか」
「……それ わたしが自力じゃどこにも行けないみたいなんですけど??」
「おお ボイジャーも木星を借りて外惑星へ行っただろう」
「知ってるよ 2号なんてグランドツアーしたじゃん でも実際スイングバイ自体でそこまで距離伸びる?」

呆れた声音で返しながら、はリビングテーブルの上からテレビリモコンを取って電源を入れる。ストリーミングサービスの中で映画を漁るを横目にエスプレッソを飲み切って、ゼノは二人分のカップを手にソファから立ち上がった。

「ああ 近くを通るほど大きく曲がって 大きく加速する 重力井戸に深く潜るほどね」
「………じゃあ もっと近くにいても いいかもね」
「フフ 衝突しない程度にするんだよ」








datum
09.23.26