窓越しに響くコンプレッサーの作動音と初夏の強い日差しが待合室を満たす。決して混雑してはいないが過疎ともいえない待合室を横目に、は恰幅の良い初老の男性が座る受付カウンターへと向かった。リフトの唸りと作業場から滲むラジオの音が絶え間なく聴覚を刺激する。

「州の検査を受けたいんですが」
「書類お持ちですか?」
「ここに」

外気を一瞬で忘れる強さで効いている冷房を肌で感じながら、カウンターに保険証書と自身の身分証を載せる。慣れた様子で手に取ったそれを数秒確認し、ちらりと受付はの顔を手元の身分証と見比べた。それからそれを押し返すように戻して、年月を経て皺が刻まれはじめた手が差し出される。

「鍵をお預かりします」
「お願いします」

見慣れている自身のものではない鍵をその手に乗せ、尋ねられるまま自分の電話番号を諳んじる。保険証書を横に作業票を切った受付の男が、人好きのする笑顔を向けて票をへと手渡した。

「今日は検査だけ?ついでにオイル交換もどうですか」
「今日は検査だけで」
「そうですか では そうだな… 前に1台いるから 15分か20分くらいかな」
「ありがとう」

そう言って、腕を組んで壁掛けのテレビを見ているカウボーイハットの老齢男性の前を通り抜け、空いている席に腰を下ろす。窓の向こうに、ガソリンスタンドとストリップモールが見える。は一週間ほど前の真夜中に同じ道を通って、車検を待つ車の持ち主を送り出した時のことを思い返した。俺ん葬式何回やった、と尋ねた声が脳裏をよぎる。エンジンオイルとタイヤのゴムの香りが混じる待合室は、あの日空港付近で嗅いだ空気によく似ていた。冷えた指先を冷房のせいにして薄く息をつき、バッグから取り出したラップトップを開きかけたところで、カウボーイハットの男性がを見遣る。

「いい車だな」
「………いちばん好きな車です」

ガラスを隔てた先で、四輪駆動車がその堂々たる姿をテキサスの強い太陽光の下に晒している。は見慣れてしまったその車体を見つめ、まさか自分で運転する日が来るとは思わなかった、と胸中で独りごちて柔く笑った。初めて乗ったのはガラの夜だ。あの夜、なぜスタンリーが関係に名を与えようとしたのかは結局ずっと分からずじまいだが、今となってはもはやそれも瑣末な問題だった。人が運転する車の助手席で寝ることはないはずだったのに、スタンリーが運転する横で眠るのが特別なことでなくなっていったのも、あの日以来だった。

「どこへでも行き 生きて帰ってこられる まさに走る要塞だろう」

聞き覚えのある宣伝文句に、は視線を横に移す。そうして数拍の間、ただ窓の外へ目を向け双眸を細めるそのカウボーイハットの男を眺めた。何かを懐かしむ瞳が、光を受けてエメラルド色に透ける。窓から差し込む日差しは、肌に触れても冷房の効いた空気によって大した熱を届けなかった。

「……… 詳しいですね」
「若い頃乗ってた」

得意げな顔で一瞥をくれる老齢男性に、ああ、なるほど、と口端を僅かに上げて相槌を打つと、ちょうど待合室に呼び出しの声が飛んだ。男性が椅子から立ち上がる。その背を数歩分見送って、は膝に乗せていたラップトップでチャットアプリの通知を浚い始めた。いくつかに返答を打っていると、不意に新着メールの通知が表示される。エグリンで受け取った名刺と同じ名前が目に留まって、しばし手を止める。会計を済ませたカウボーイハットの老人が、片手を上げ茶目っ気の滲む視線を寄越し前を横切っていくのに釣られ、は短い笑いを溢してそのメールを開いた。了承を示す簡素な数行を読み、そっと画面から目を離して窓の外を眺める。エアインパクトレンチの音が作業ベイから人の減った待合室に響く。強いだけで熱をほとんど空調に奪われた日差しが樹脂の椅子を照らす。はふと、今頃スタンリーはどうしているだろうか、と思った。作業ベイに続く扉が開き、大音量のラジオが外気とタイヤのゴムの香りと共に容赦無く待合室の日常の音をかき消していく。

「スナイダーさん」
「はい」

カウンターから呼ばれた名前に反射的に返事をし、ラップトップを無造作にバッグに戻して立ち上がる。呼んだ相手の元に向かいながら、はたった今自らが返事をした名前に瞬きをした。新たにやってきた客が正面扉をくぐり、再び重く暑い外気が寒いほどの待合室に雪崩れ込む。

「よく手入れされてるね 排ガス検査も 灯火類もタイヤもホーンも 何にも問題ない」
「よかった」

外気の熱にオイルと薬品の香りを纏った検査員に笑んで、は銃を分解清掃する記憶の中の男の姿を思い出す。確かに自分の扱うもののメンテナンスを怠る人間ではない。本当に何でも一人で完結できてしまうかもしれない、とは今度は音もなく諦念の滲む笑みを落とした。じゃあと言って鍵をカウンターに置いた検査員が作業場へ帰っていく。カウンターの奥で印刷される検査報告書を眺めて不備がないことを確認した受付がにこやかに笑う。

「鍵 お返しします こっちが検査報告書」
「ありがとう」
「登録更新はオンラインでもできるからね」

受け取った書類を保険証書と揃えてクリアファイルに挟み、は会計を済ませて店を出た。涼しくもない風が頬を撫でた途端に忘れていた湿度と気温が全身を包む。歩くついでのようにはスマートフォンの通知を確認する。鋭利な日差しが湿気を潜って重く降る。数キロ離れたエリントンフィールドから飛び立つ航空機のエンジン音が、空の端を上がっていく。かろうじて肌に冷気が残るうちに四輪駆動車に戻ったは、持っていた荷物を助手席へおざなりに放ってから運転席の位置を調整しすぐにエアコンをつけた。車を出すと、それとほとんど同時に端末が振動する。驚きとも期待とも恐怖ともしれない理由で心臓が跳ねるのを感じながら、画面を一瞥しては隣接するファストフード店の駐車場へ再び車を停めた。

「大佐 ご無沙汰しております」
「やあ博士 今いいか」
「ええ」
「突然なんだが君の予定が合えば今度 実地調査が可能な機会がありそうでな」

ひとつふたつと瞬きをする間に、電話の向こうで呼吸に薄い笑いが混じる。

「さっきメールに返信して思いついたんでまだ状況は未確定だが どうだ 意向は」
「ぜひ」
「はは 君ならそう言いそうだと思っていた また状況が決まり次第連絡する」
「ありがとうございます」
「では」

余韻が消えるのも待たずすぐ切れた電話に、は同じように通話を切る男を重ねて小さく吹き出した。はあ、と大きく息をつき背凭れに軽く身を預け、視線の先にあるファストフード店によって自身が空腹だったことを知る。少し離れたパーキングスポットへ一台の車が滑り込む。大した間を置かず、その車から少し疲れた様子の見慣れた青いフライトスーツが降りるのを認めては運転席のドアを開けた。久々に発音する言語が人もまばらな駐車場に響く。

「百夜」
「ん?おー!じゃねーか!すげー偶然だな 何してんだここで」
「車検代行の帰り そっちは… エリントンでの飛行訓練?」
「正解 飯食って帰るとこ」
「それわたしも一緒していい?お腹すいてて」
「もちろん!」

無邪気に喜ぶ男に苦笑して車のエンジンを切り、バッグとスマートフォンを掴んで降りる。施錠して歩きかけたところで、は何かを思い出したようにその足を止めた。ヘルメットの癖がついた百夜のシルバーの髪が振り返りざまに風に靡く。

「待って 書類しまってくる」
「書類?」
「さっきの車検の 個人情報ダダ漏れになる」
「あー つかこれスタンリーの車か」
「そう」
「が運転するにゃでかくねえ?」
「いやマジで本当にそれね もう運転したくないかも」

冗談めかして鼻で笑うが助手席側のドアを解錠し検査報告書の入ったクリアファイルを掴む。何食おうかな、と楽しげな百夜の横でグローブボックスを開けると、は小さく訝しげな声を溢した。気付いた百夜が助手席を覗き込む。そのボックスの中は大して驚くものもない、よくある車の取扱説明書を始めとする書類を束ねたファイルが放り込まれているだけのように見えた。しかし、手にしていたクリアファイルをそこへ入れたが中から何かを拾い上げる。

「何だろこれ」
「ステッカーとかじゃねーか?」
「あー でも貼らないのに取っとく人じゃなさそうだけど」

そう言うの手元を百夜は再び見遣った。は小さな封筒を開け、自身のもう片方の手のひらに向けて傾ける。テキサスの強い日差しの下に、一枚の写真が晒されてひどく眩く光を弾く。百夜はそれを上手く視認できずに束の間沈黙した。体温とさほど変わらない風が肌を撫でて熱されたアスファルトの香りを運ぶ。交差点の信号が変わり、動き始める車の走行音が幾つも重なってその交通量の多さを物語る。ジェットエンジンの轟音を引き連れた飛行機が、着陸に向けて高度を落とし太陽を遮って通り過ぎていく。ようやく誰の写真であるかを把握した百夜が眉を下げて柔く笑っても、は手元のそれを眺めたまま、ただじっと口を引き結んで黙っていた。

「…俺も持ってんだよな 息子の写真 まー 飾ったりしてるわけじゃねーんだが」
「……」
「俺は親だけどよ でも…… だからこそ 分かる気がすんだ」

ストリップモールの店舗を出入りする客の会話が湿った空気にやけに響く。じりじりと肌を焼く太陽光を首筋に感じながら、百夜は笑って雲もない空を眺めた。

「どっち側も… そりゃあもちろん 同じじゃあねーだろうが ちっとはな」

独り言のような百夜の声が駐車場に吹く風に流されていく。作業場から運ばれる輪郭のぼやけたラジオの音が聴覚を掠める。は写真を封筒に戻し、幾度か瞬きを繰り返す。そうして一度顔を伏せたのちにそのままグローブボックスを閉めた。車の施錠音に続く小さく鼻を啜る気配に、百夜が半歩前を歩くの頭を軽く撫でる。それを追って薄く笑う声は、ファストフード店の扉を開けた途端に溢れる音楽と雑踏に呑まれていった。

「ありがとうおとうさん」
「わりー つい親心が…」








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