昇格したからといって、生活が一変する訳ではない。対応する任務の幅は広がるが、スリーマンセルは相も変らぬ顔ぶれだし、悩んでいた悩みが一気に消えて無くなるわけでもないし、お金は貯まるがやはりそれなりに忙しいし、任務受付所は変わり映えしないし、夏は暑いままだ。黒髪を後ろで束ねた男が任務完了報告を受付にて済ませて戻ってくるのを、ぼーっと待つ。隣ではよく咳き込む同期がひとつふたつと咳をする。その向こう、窓の外では、授業中の生徒たちの元気な声に混じって雷を落とす教師の声がした。

「ねえ、
「んー」
「上忍昇格おめでとう」
「...朝から一緒なのにすごいタイミングで言うね?」
「まだちゃんと言ってなかったから」

ありがとう、と笑っては椅子に膝立ちになって窓を開け、桟の上に肘をついて窓の向こうを見下ろした。眩しい日差しの中で体術を学ぶクラスもあれば、座学に励むクラスも見える。焼けつくような乾いた暑さの中を風が吹き抜ける。はふふ、と小さく笑った。先生に怒られてもめげず、悲しい事があったって友達とふざけ合って笑い合えた頃が、この校舎の中には詰まっている。それは大変に懐かしかったが、どうしてたった1年であの場所を出てきてしまったんだろう、と思う時の方が増えていた。そしていつもそのあとに、そんなに急いで、どこに行くの、と言われて笑われていた幼少の頃を思い出すのだ。ふと、は視線を外から隣に座る少年へと移す。光の差が激しくて、よくは見えなかったが、はた、と視線がかち合うのが分かる。

「ハヤテ?」
「いや、上忍になったのに、あんまり嬉しそうじゃないなって」
「...。だって今回は一人で昇格したからね」

早く追いついてよね、と言って笑いながら、よくもまあ、咄嗟にそんな嘘がつけたものだと思う。大きくなる度、自分のことが嫌いになっていくような気がする。

「あれ、
「あ、カカシ!」
「その反応、昔っから変わんないね...」

良いんだか、悪いんだか、と眉尻を下げて笑うと、カカシはの隣に座る少年へも片手を上げて挨拶をして、の向かいのソファへと腰掛ける。つい先日まで立て続けの任務で長いこと里を出たり入ったり忙しなくしていたカカシに、久しぶりだね、とが笑う。隣で横顔を眺めながら、心底嬉しそうなそれは今日見たどの笑顔とも違う、とハヤテは思った。しかし、の喜びは尻尾があったら振り切れそうな勢いだったが、それに笑って返すカカシの瞳は、まるで医者のように注意深いそれだった。何かあったんだろうか、とハヤテの胸に疑問が浮かびかけたところで、待機所の敷居を跨いで黒髪の男がやってくる。

「おう、カカシ」
「どうも」
「シカク先生遅いです」
「うるせー」

おら、行くぞー、と気の抜けた炭酸のような締りのなさで、シカクは入ってきた敷居をまた跨いで外へ出る。ハヤテは二、三度咳き込んで、が開けた窓を閉めると、先に行ってるねと言ってシカクを追って去っていく。相変わらず律儀だなと思いながら返事をして、が立ち上がる。向かいに座るカカシはソファに座ったまま、を見上げていた。カカシの目は、陽射しを受けて銀色とも灰色ともつかない色をしている。カカシ、わたしね、とが静かに口を開くと、カカシは、うん、と返した。それは久しぶりに会っても何ら変わらないやり取りであったが、しかしカカシはその短い間もから思慮深い医者の視線を外さなかった。にはそれが、無言のうちに彼に責められているように思えて、少し怖かった。

「上忍になったの」
「おめでとう。実はオレも昨日、三代目に聞いて驚いた」
「なんだ、そうなの......まあ、いいや、これからは同じ土俵よ」
「土俵って、お前ね.......ま、でも、嬉しいよ」

ようこそ、と言ってにこりと笑うカカシにありがとうと笑い返して、そろそろ行かなくちゃ、とが言うので、二人は、またね、と言い合って待機所で別れたが、途端に、ぼん、という音がして待機所を出ていくが例のごとく犬に化けて駆けて行ったので、カカシは盛大に溜息をついて待機所の天井を仰いだ。今度やったら犬塚家へでも預けようか、という彼の声は、しかし相も変わらず外から響いてくる賑やかな子どもの声と重なって誰に聞かれるでもなく夏の陽射しに溶けていった。





任務完了報告後の少し遅めの昼食をの上忍昇格祝いランチと称して、シカクとハヤテとは祝いの時くらいしか食べない焼肉を食べたばかりか、の希望でアイスまでその胃袋の中へと収めた。その日、大好きな面々に囲まれて笑いながら美味しいものを食べることほど、幸せなことが他にあるんだろうか、とは思った。思う存分食べて笑い、会計をシカクに任せて外に出ると、ちょうど陽射しがゆっくりと夕陽に変わっていく頃だった。三人でつらつらと帰り道を並んで歩く。他愛もない話をしているうちに、いつものようにハヤテが自宅への曲がり角で立ち止まり、挨拶をして別れていく。の家への曲がり角は、ここからさらに二つ先だ。改めて礼を言うためにが口を開くと、それより僅かに早く、シカクが寄り道を提案した。普段悠々として滅多なことでは動かないシカクがこういう行動にでることは、あまり多くない。彼の教え子であるでさえ、数える程度しか見たことがなかった。

「ここから見る夕陽が最高に綺麗でな」

忍者学校からの帰り路を戯れながら駆けていく子どもたちを眼下に見ながら、小高い丘の上の大きな石に腰掛けて、シカクは開口一番そう言った。は強い風に目を細めて、まだ少し高い夕陽を見遣る。柔らかな蜂蜜色をした、夕陽になりたての太陽が少しずつ空の色を染めていくのを見詰めると、不思議な心地がした。月は何度も飽きずに見るけれど、太陽を眺めるなんてしたことがなかった。眩しいのだから当然と言えば、当然なのだけれども、夕陽でさえ、数える程度しか見たことがない。

、お前が木ノ葉にきてどれくらいになる」
「4年です」
「もうそんなになるか...早いな」
「はい」
「元々素質があったとはいえ、大名家の姫様がこの短期間で上忍になるとは、お前には驚かされる」
「はは...」

の笑いは夏の風みたいに乾いていた。ざあ、と丘の上の青々とした草花を風が撫でていく。優しい白い花の匂いが鼻先を掠める。カカシは、もう次の任務へ出ただろうか、とふとは待機所で久しぶりに見た男のことを思い出した。最近とんと会う機会がない、久しぶりに見る命の恩人は、酷く疲れているようだった。しかし、それにも関わらず、彼の目はあの時、確かに自分を心配していた。は石の横に立ったまま、太陽の眩しさから目を背けた。時々、周りの人間のことを考えると無性に泣きたくなる。期待に応えられなくてごめんなさい、といつも思う。何を期待されているかすら分からないのに、これもまたにとっては不思議なことだった。シカクの低く穏やかな声が、体の左側から聞こえてくる。

、なりたいものはあるか」
「...ないよ、そんなの...なくて困ってるの」
「いいさそれで......完璧を目指す必要なんて、どこにもない」

山の向こうから差し込む夕陽がいよいよ傾いて熱くなっていく。じりじりと肌を射す熱さに身を浸しながら、は口を噤む代わりに緩く笑んだ。風が吹く。洗濯物が揺れる。どこかで子どもがボールを蹴る音がする。夕陽がじわじわ滲んで山影の向こうへ溶け始める。は感情を殺すべきか否か決めかねて動けないまま、熟れた柿色の太陽をもう一度見遣る。

「欠けててもいいし、歪でもいい。みんな違う形をして生きてるから面白いのさ」

シカクは一度そこで、言葉を区切って瞬きをした。教え子を受け持ってからの日々を思い出す。正直、楽しかったことよりも面倒臭いことのほうが多かったかもしれない。しかし、面倒なことも、悲しいことも、悔しいことも、何一つ余所には転がっていない時間だった。

、自分の形を失うな。どっかで見たようなつまんねえもんになんかなる必要はない」

そう言ってシカクは両膝に手をついて、悠々と立ち上がった。ほんの少しの間にも、燃えるような夕陽は傾いて、地面に立つ自分たちの影を伸ばしていく。この星が動いていることを実感できる、この時間がシカクはとても好きだった。結局ずっと自分の横に佇んだまま、一言も発しなくなったの頭に片手を乗せる。風が吹くと、夕陽に照らされて落ちる雫はこの世のどんな宝石よりも綺麗に煌めいた。

「お前は俺の教え子なんだ。胸を張れ。そんで良い女になれよ」
「はい...」
「よし」

帰るぞ、と踵を返すシカクが、最後までの涙には気付かない振りをしたことを、はとても嬉しく思った。両手で涙を拭って、シカクの後に続く。ありがとうございました、と言って、曲がり角で笑って手を振ると、シカクはとても満足そうに笑って、片手を上げた。の姿が見えなくなるまで見届けると、シカクもその場を歩み去る。歩きながら、シカクは受付所で出くわした男のことを思い出した。わざとらしく、シカク先生、と呼んで、少女を上忍に推薦した理由を問い詰められた時、シカクは彼がそれを望んでいなかったことだけではなく、彼女の問題に気付いていながら見守るしかない彼の葛藤も知ってしまった気がした。しかし、正して導くのは、彼女の命の恩人ではなく指導担当である者の仕事だと彼が思っている限り、彼は彼女の如何なる昇格をも笑いながら祝うだろう。



あれ、と無事に帰宅したは一瞬、部屋の違和感に立ち止まる。不意に、今朝イルカから聞いた不審者の話を思い出す。ざわつく胸を宥めながらダイニングテーブルの前まで進むと、テーブルの上には、見慣れないマグカップが置かれていた。持ち手にリボンが掛けられたそれは、一枚のメモ用紙を踏んでいる。

新米上忍さんへ
もう割らないよーに!

そう記す見慣れた字が滲んで、は誰もいない部屋で笑いながら両手に顔をうずめた。





きみは良い奴だ、最高だ



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