早朝に紅に付き添われてイルカとの関係に答えを出したは、その後大人しく病院へ戻って医者からの小言を頂戴しながら検査を受けた。ああ、折角結ってもらったのに、と容赦なく髪が解かれるのを残念に思いながら、幾つもの検査をすべて終えて病室へ戻る頃には、早朝の逃避行も相まってかさすがに気が疲れてベッドの上に倒れ込む。そしてそのまま、本人も知らぬ間には眠りについた。幾度か人の声に僅かに意識が浮上するも、目を覚ますのが酷く億劫で、結局が再び意識を取り戻したのは時計の針が午後8時を示してだいぶ経つ頃だった。静かな病室で、海の底に取り残されたような明かりの傍のベッドから身を起こす。耳の奥で轟々と雨の音がする。そういえば父親と別れた夜も、轟々と音が鳴っていたなとぼんやりと思いながら、忍び寄ってくる落ち着かない心地に息を吐く。は早くこの海底から抜け出したい、と思う一心に駆り立てられて部屋を出た。中庭を通して院内の明かりが闇夜を微かに照らすのを眺めながら、階段をあがると、ざあ、と勢い良く一陣の風が吹いて下ろしたままのの髪を揺らしていく。手摺まで進んで、その上に両腕をつく。誰もいない屋上から眺める夜景は、昼間の里とは打って変わって正真正銘の隠れ里の景色だった。ふわふわ浮かぶ橙色の光が、柔らかに森の中で発光している。綺麗、と小さく呟いて、は長いことその景色を眺め続けた。今朝方、きみは一番大切な人を一番近くで失う時の痛みが怖いだけだ、と言ったイルカの言葉を思い出す。改めて、その通りだ、とは微かに嗤った。父親が最期を迎えたあの夜でさえ、自分は身近でそれを見ていない。一番大切な人を一番近くで失うことは、考えただけでまるで宇宙の果てに放り出されるように恐ろしいことだった。だから大切な人ができても、気付かないふりをした。怖くて怖くて仕様のないそれを傍に寄せ付けなければ、特別にしなければ、想像することすら恐ろしい痛みはやってこないだろうと思っていた。木々を揺らして夜風が空へと舞い上がる。不意に、は里の夜景から目を離して屋上のドアを振り返った。しかし、捉えたと思った姿はどこにもない。どくどくと心臓が鳴り始める。信じられないくらい感覚が鈍っている、と胸中で舌打ちをして僅かに眉根を潜めると、ぐい、ととても強い力で後ろへ引かれては悲鳴を殺すように息を呑んだ。同時に、急に肌を撫でる冷たい風が止む。とくんとくんと優しい音が耳に触れる。酷く懐かしい匂いに包まれて、次第に優しいそれに重なっていく鼓動を、は抵抗するでもなく泣きそうな心地で聞いていた。何を言えばいいのか分からない気持ちと、何でもいいから叫びたい気持ちが込み上げる。
「おかえり...」
耳元で低く、柔らかな声が響く。その声が切なくて、は振り返ることもできずにたった一つ頷いた。そっちこそおかえり、とか、久しぶり、とか、助けてくれてありがとう、とか、そういった言葉の数々から、自分が失くした命のことや、助けられたこの命の先で選んでみたい道のこと、全てがいっぺんに鮮やかに溢れ出して、目眩さえしそうな気がする。身動ぎできないほどに自分を抱き留める腕の力強さに両の目から涙が落ちた。痛みを恐れて大切なものを傍に寄せ付けないなど、きっと最初からできるはずがなかった。
「カカシ」
「...何してんのこんな体で...」
「...元気だよ」
「どう見ても調子悪いでしょ...」
「でも生きてる」
咄嗟に返ってくる声はない。温かく抱き留められた腕の中で、は身動ぎをした。ようやく腕の力を緩めたカカシと向き合って、視線を上げる。瞬きをするのも待たずに次から次へと雫が溢れる。カカシは僅かに眉根を寄せて、夜の闇に紡がれるの声を黙って聞いていた。
「でも生きてるわ」
「......ああ」
「ありがとう」
諦めないでいてくれて。助けてくれて。そう言って一つ微笑うのが精一杯だった。ぼろぼろと涙を零しながら微笑うをもう一度抱き寄せて、カカシは腕の中に収まるの頭を撫でる。ああ、ともう一度微かに返事をしながら、7年前、家の屋敷で命を諦めていた少女に、もしかしたらきみもいつか追手に殺されてしまうかもしれない、と言ったことを、不意に思い出す。あの時も、自分はこの女の子の命を守ろうとしていた。しかしそれは、そうすることが役目だったからだった。そして半年前、雨の中救出に向かったのだって、同じように任務として任されたからだ。しかし今度はそれ以上に自分の気持ちが動いていた。忍として精一杯の冷静さを保ったつもりでも、あの日落ちたたった一つの雫を止めることはできなかった。
「カカシ」
涙で掠れた声に呼ばれ、カカシはと視線を合わせる。暗闇の中で、小さく煌めく雫と睫毛に縁取られる双眸が真っ直ぐにカカシを見つめていた。冬の真夜中のような静けさと、誰も踏み入らない山奥に潜む湖底のような揺るぎなさで深く、澄んだ紺碧の瞳。それは7年前、前に進むことを決心した少女と何ら変わらないものだ。
「...好きよ」
夜の静寂の中、掠れる臆病な音が、夜空を流れる風に攫われていく。歌うように綺麗にも、聞いたように勇敢にも言えなかった言葉に、不安が募る。カカシは目を瞠って、しばしの合間言葉を失う。しかし、夜の闇を揺蕩うその沈黙にが耐え切れず視線を逸らすと、カカシは僅かに息を吐いて、そっとの頬を撫でた。の視線が再びカカシへと向けられる。
「...いいの?」
「え」
「もう逃げられないよ」
ずっとそうだったでしょ、と静かに言うカカシに、は息を呑んだ。全部知っていたの、と言う言葉が怖気づいて出てこない。カカシは静かな瞳をに向けたまま、何も言わずに一つ緩やかに瞬きをする。お互いに見つめ合ったまま暫くの間夜の里の音を聞く。ありがとうございやした、と威勢のよい声がどこか遠くから聞こえて消えていく。手を伸ばしてカカシの頬に触れて、は耳の奥で止まない雨の音に耳を澄ませる。確かに自分は一番大切な人を一番近くで失う痛みが恐ろしくてずっと逃げてきた。しかし結局、怖がって逃げた分だけその恐怖は増すばかりで逃げられなかった。はそっと、最後に見た父を思い出した。いつかくる別れの時を先延ばしにして、一番幸せな時間を巻き戻していた父に、戒められるように言われた言葉が蘇る。ふふ、とは不意に一つ笑みを零してカカシを見詰める。本当に失ってしまう前に幸せになるべきだと言ったイルカの声を思い出す。
「逃すつもりなの?」
酷く鮮やかな音で夜に生まれた声に、カカシは一瞬不意を突かれたように目を瞠った。しかし次の瞬間には、僅かに声を漏らしてとても嬉しそうに微笑う。緩々と優しく受け止めるような、見慣れた目の前の男の笑みに釣られて微笑むと、カカシはぐいとを引いて抱き寄せた。まさか、とようやく答える男の瞳を見つめて、自分を抱き留める体の確かさに小さく息を吐く。はそっと、カカシの口元を覆う口布に手を掛けた。夜風に揺れる銀色の髪が、柔らかに煌めく。不安と気恥ずかしさから、ほんの少し躊躇うようにそのまましばし手を止めると、カカシが優しく笑む気配がした。指先で口布を引き下ろして、がそろそろと唇を寄せると、身を屈めて迎えるようにカカシはそれを受け止める。森の中、柔らかく闇夜に浮かぶ光を足元に散りばめる病院の屋上に、静寂が降る。静かにカカシの手がの頬に添えられて、唇を離す合間に、好きだ、と低く優しい声が静寂を破る。それを合図にするかのように、二人は幾度も唇を重ね合って静寂を食んだ。それはまるで劇薬のような、例え命と引き換えにしても得たいと思う激しい欲望を心の中に植え付ける。はあ、との吐息が微かに漏れて、深々と降る静寂の中どちらからともなくそっと離れる。静かに片手で口布を引き上げて、カカシは名残惜しそうに一度だけの目元を撫でた。
「...そろそろ戻ろう、体に障る」
うん、と言うを抱き上げる。しかし不意に脳裏にあの雨の中が蘇って、カカシは僅かに足を止めた。それに気がついた、そっとカカシの肩に頭を預けるが、私達は過去に捕まりやすいね、と小さく微笑う。カカシはそれに笑みだけを返すと再び歩みを進めた。守るだけなら、自分の気持ちも一番か二番かも関係なかった。しかし、目を覚ました彼女が向き合う気持ちが自分と同じものだったなら、もう手にもせず失う後悔はしたくない、と思った。大切なものを失う痛みを恐れて、本当に大切なものから目を逸らしてしまったら、あっという間に時間がそれを奪っていく。大切にしていたって、恐れて目を逸らしていたって、自分たちはいつかそれを失ってしまうのだ。
「」
「うん?」
「...。...お前が言わなかったらオレが言うつもりだったよ、ホントはね...」
「え?!...そうなの?」
まるで独り言のような声音のそれに、驚きの声を上げて、はカカシの肩に預けていた頭を勢い良く上げた。チラリとを見遣っただけで、黙ったまま屋上を後にするカカシに、いつから、と聞けば、さあ、という気のない声が返ってくる。黙って答えるつもりのないまま階段を降りるカカシに溜息を吐いて、どうして、と問えば、カカシはその感情の読めない瞳で再びを一瞥して、今度はうーん、と唸った。
「んー......ま、他の男がお前を看病してるのなんて見たくないなって思ってね」
「...。」
まるで、嘘でしょ、とでも言いたそうに目を丸くして沈黙した後堪えきれず笑ったから、バツが悪そうに視線を逸らしながら、カカシは辿り着いた病室のドアを開けた。ガラガラと音を立てて開かれた扉から、部屋で漂う冷えた静寂が滑り出る。ベッドの上にを下ろして彼女が布団へ潜り込んだのを見届けると、ふと視界の隅に、サイドテーブルに置かれた一輪の花が映り込んだ。花瓶に活けられもせず僅かに弱った花を見つめながらその用途を探り出したカカシは、きっと彼女に良く映えただろう、と思いながらもう一度を見遣る。すると、ちょうどがおやすみなさいと言って鮮やかに黒く輝く瞳を伏せるところだったので、相変わらず世界の果てのような静けさに包まれた病室で、おやすみ、と返して、一つ寝息が聞こえ始めるまで、カカシはその姿を見守り続けた。
壊れ物ばかりを永遠にかりそめたがるぼくたちは
110213