ミンミンゼミが狂ったように鳴いていた。それからそれを遮るように犬の鳴き声がして、居間のテレビからの野球中継が聴こえる。小さな子どもたちの遊び回る声が屋敷内に生まれては消えて、そうして、その声よりももっと近くでは、ずっと軽快なタイピング音が響いていた。はそっと瞼を開ける。頬に柔らかなクッションの感覚を感じながら何度か瞬きをして、深く息を吸うと、風に乗って食事の匂いが鼻先を擽った。溜息とともに微かな声が漏れる。
「起きたの」
頭上から聞こえた声に視線を上げると、そこには視線をラップトップパソコンの画面に向けたままタイピングを続ける少年がいた。はもう一度瞬きをする。納屋の中はひんやりと暗くて外の陽射しは届かない。
「うん」
「ほんと、良く寝るよね」
コップを銜えてちらりとこちらを見た彼は呆れた様子だった。は小さく笑って、そんなことはない、と言った。庭先ではまだ飼い犬のハヤテが鳴いている。
「ねえ、佳主馬、ハヤテ、どうしたんだろう」
「さあ?何か珍しいものでもあるんじゃないの」
佳主馬の声をよそに、空腹なんだろうかとは思ったけれども、しかし犬は多くて一日二食だ。昼飯は食べない。そうしてふと、空腹なのは犬ではなくて自分だと気が付いた。台所から漂ってくる芳しい匂いに思わず食欲が促されたようだ。茹でたトウモロコシの匂いが容赦なくの嗅覚と胃袋を刺激する。
「佳主馬」
「なに」
床に肘をついて起き上がったが佳主馬の腕を引くと、佳主馬は彼女に対していつものように短く返した。それはおよそ中学生らしくない返事の仕方ではあったけれども、それでもぞんざいな様は欠片もない。先ほどのように彼がパソコンの画面を見ることもない。彼の眼は納屋の薄暗がりの中で、しっかりとを見つめていた。
「居間に行こうよ」
「なんで」
「お腹すいた」
「食べて寝てたら太るよ」
何てことを言うのだこの中学生は。痴れっと当たり前のことを当たり前のように言って釘を刺してくる佳主馬に、は思わずぐっと言葉を詰まらせた。確かに、ここに来てからというもの、食べている割には運動していない。しかし、陣内家の屋敷は非常識なまでに広いのだ、考えようによっては、日常生活をするだけでしっかりと運動しているのではないか。はしばしそんな淡い期待を抱いた。もちろん、それは数秒と持たずに佳主馬に撃墜させられてしまったけれども。ふと、佳主馬が立ち上がる。はごろりと床の上に寝そべってそれを見る。立ち上がった佳主馬が再び呆れた様子でを見下ろした。
「何してんの」
「え?」
「居間に行くんだろ」
自分が言い出したんじゃないか。少し不機嫌そうに目を眇める佳主馬を、は何ともいえない感情と共に見つめた。そうして、込み上げる笑みを抑えきれずににやにやと笑って、立ち上がる。立ち上がると、途端に視点が逆転する。は自分を見上げてくる佳主馬に間の抜けた返事をして納屋を出た。一気に夏の日差しが二人を照らし出す。ふっとは外を見る。やはりミンミンゼミが狂ったように鳴いていた。それからそれを遮るように犬の鳴き声がして、居間のテレビからの野球中継が聴こえる。小さな子どもたちの遊び回る声が屋敷内に生まれては消えて、そうして、その声よりももっと近くでは、薄暗がりから這い出た二人のくだらない会話が響いていた。
ディアレスト・ブルー
080409
(大胆な自信家の臆病な優しさ)